真田昌幸~戦国時代を巧みに生き抜き真田家を守った名将


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 真田昌幸(さなだ-まさゆき)は、1547年真田幸隆の3男として生まれた。幼名は真田源五郎。
 母は河原隆正の妹・恭雲院、又は阿続方という説もある。
 2016年NHK大河ドラマ「真田丸」では、草刈正雄さんが真田昌幸を演じる。

 この頃、父・真田幸隆は武田晴信(のちの武田信玄)の軍門に入ってまだ数年と考えられ、1545年に旧領に復帰したばかり。信濃先方衆として、戦場では常に最前線で戦っていた。その為、戦功も多く、真田幸隆の活躍が目立つ。
 真田源五郎(真田昌幸)は7歳になると、父母の元を離れて1553年、甲斐・甲府へ人質として送られた。
 真田本家の跡取りである真田幸隆の嫡男・真田信綱や2男・真田昌輝ではなく、3男を人質としたのは武田晴信の配慮とも言える。
 この頃の1553年と言うと、武田晴信は4月に小笠原氏の残党と村上氏の諸城を攻略。村上義清が信濃を追われて上杉へ逃れた。しかし、上杉は和田城主・大井信広を武田から上杉に寝返えさた為、8月1日に武田晴信は大井信広・大井信定が討ち取るなど北信濃の状態が安定せず、信濃衆から人質を取る事に。そして1553年8月10日に真田幸隆から3男・真田源五郎を預かる変わりに秋和の地(上田近郊)350貫を加増し、真田幸隆は約3000貫(約9000石?)にした。9月には川中島に上杉兼信自ら出陣し、武田晴信と対峙している。

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 武田信玄の近習として活躍

 人質とは名目上のことであり、真田源五郎(真田昌幸)は、甲府で過ごす間にその才能を見出され、武田晴信の奥近習衆に加わり、将来、武田氏の重臣になるべく英才教育を15年間受ける事となる。
 この奥近習衆には「奥近習六人衆」と呼ばれた蒼々たる若き武将がおり、真田昌幸のほかには、三増峠の戦いでも活躍した土屋昌次曽根昌世山県昌景からも信頼を得た三枝守友、譜代家老衆である甘利虎泰の嫡男・甘利昌忠、長坂光堅の子・長坂昌国がいる。
 1561年の第4次川中島の戦いでは15歳の真田源五郎(真田昌幸)が初陣したとされ、武田信玄の近習として武田信玄の警護にあたった。
 その後、1561年~1564年頃には、武田信玄の母方である大井氏の支族になる武藤家の養子に入り真田源五郎(真田昌幸)は武藤喜兵衛昌幸(武藤昌幸)を称した模様だ。
 1564年頃には、遠江・尾藤頼忠(のちの宇多頼忠)の娘・山之手殿(寒松院)を妻に迎えた。山之手殿の出身は諸説あって、菊亭晴季の娘とも。京之御前様と呼ばれていたこともあるようで、公家の娘である可能性も高く、武田信玄の仲介で真田昌幸の正室になったものと推測する。
 1565年7月には長女が、1566年3月には長男・武藤源三郎(真田信之)が誕生。続いて1567年には2男・武藤弁丸(真田幸村真田信繁)が生まれた他、1568年には次女も誕生している。
 1569年10月、三増峠の戦いで、武藤喜兵衛昌幸(武藤昌幸)は馬場信春隊の検使の旗本を務め、一番槍の功をたてた。
 1570年1月、駿河花沢城攻めに武藤喜兵衛昌幸(武藤昌幸)も参陣したと名が見られる。
 駿河攻めの際には、曽根昌世と武藤喜兵衛昌幸(武藤昌幸)は、武田信玄から「我が両眼だ」と称されている。
 1572年春には、武藤喜兵衛昌幸(武藤昌幸)の名が奉行人として見られる。そして、武田信玄は10月に西上開始し、12月、三方ケ原の戦いでは真田一族も参戦し徳川家康・織田連合軍に勝利している。
 1573年4月12日、武田信玄が帰陣途中、伊那駒場で病没する。真田幸隆は落胆のあまり、七日六夜の間、食を断ったという。
 1574年5月19日、62歳の真田幸隆も武田信玄を追うように死去。真田幸隆の嫡子・真田信綱(真田昌幸の兄)が、真田本家の家督を継ぐ。
 1575年5月21日、長篠で戦いで武田勝頼は敗北し、多くの武田重臣も討死。真田家も当主・真田信綱(39歳)だけでなく、2男の真田昌輝も戦死。
 兄2人が討死したが、武藤喜兵衛昌幸(武藤昌幸)は、武田勝頼の旗本衆として戦っていた為、戦死は免れていた。
 真田家は、本来であれば討死した真田信綱の嫡男・真田信興が継ぐところであるが、高坂昌信が武田勝頼に助言したこともあり、武藤喜兵衛が真田家を継ぐことになる。
 そして、真田昌幸として真田に戻ると真田信幸真田幸村も真田の里に戻ったとされる。
 長篠の戦いで負傷した武田兵の療養場所として武田勝頼が当時上州を支配していた真田昌幸に命じ、伊香保温泉を整備した。有名な伊香保温泉の石段もこの時に完成。

 1576年、海野長門守、海野能登守の兄弟が真田昌幸に属する。
 1578年、武田と上杉が同盟。御館の乱に乗じて相模の北条氏直が占領していた東上野・沼田領を狙ったため、武田勝頼は真田昌幸に侵攻するよう指示。真田昌幸は名胡桃城鈴木主水、小川城の小川可遊斎を味方に引き入れ、沼田城矢沢頼綱に正面攻撃させる。矢沢頼綱は真田幸隆の弟で、百戦錬磨の武将であった。
 1580年1月11日、真田昌幸は名胡桃城で軍議を行う。そして、1月31日に明徳寺城を攻略し、沼田周辺に放火してあと、名胡桃城に引き返した。この後、真田昌幸は沼田城攻略軍を叔父の矢沢城主・矢沢綱頼に任せ一旦甲府に戻る。
 1580年3月、矢沢綱頼は沼田城を包囲する。4月上旬、真田昌幸が名胡桃城に入ったところで金子泰清、渡辺左近允らが投降。そして5月になると沼田城の藤田信吉も武田に投降し、5月18日、真田昌幸は無血で沼田城に入城し、6月30日、藤田信吉は沼田城をあとにしている。 以後、藤田信吉は武田勝頼の家臣として真田昌幸に仕えた。藤田信吉は、はじめ用土・小野姓を称してようだが、沼田城開城の恩賞として12月に武田勝頼から藤田姓と能登守を賜り、上野国沼田や南雲に5700貫の所領を拝領している。
 1581年1月、武田勝頼より甲斐・韮崎の新府城普請奉行に真田昌幸が任じられる。
 また、沼田から会津に逃れていた旧沼田城主・沼田景義が沼田城奪回を目指し大胡氏・那波氏らの加勢を加えて3000の兵で挙兵し、田北の原の戦いで沼田城代の藤田信吉と海野勢は敗戦。沼田衆には旧城主の沼田氏に参陣する者も多かったようだ。しかし、真田昌幸の計略により不意打ちを受けた沼田景義は討死し沼田氏は滅亡している。

 真田の生き残り作戦開始 武田滅亡により北条氏直に近づきつつ、織田信長に臣従

 1582年3月、織田信長が武田攻めを開始。武田勢は初戦こそ奮戦するものの、家臣の裏切りが相次ぎ、織田勢が甲斐に侵攻すると、撃退する為の兵すら集める事が困難となり、武田は内から崩壊した。真田昌幸は、武田勝頼に難攻不落な岩櫃城(いわびつじょう)に逃れるよう進言したが、武田勝頼は小山田信茂岩殿城を目指すこととなる。
 新府城を3月3日に発つとその逃亡途中、小山田信茂も裏切り、3月11日、武田勝頼は甲斐・田野で討死。

 この時、実は当初、武田勝頼は真田昌幸の岩櫃城へ落ちる決断をした。
 そのため、1582年2月28日早朝、真田昌幸は急ぎ岩櫃城に戻り、鎌原氏、植栗氏、湯本氏、池田氏などの家臣を召集。
 岩櫃城の南側に、武田勝頼を迎える為の「御殿」の建設を昼夜3日間で完成させたと言う。現在の潜龍院跡である。
 しかし、新府城から急使が来て、武田勝頼は小山田信茂の進言を受けて、岩殿山城へ逃れる事に変更したのだ。
 この報告に驚いた真田昌幸は、箕輪城の内藤家にも連絡し、自ら2500を率いて上田城に入ったが、届く報告は武田勢の敗報や謀反ばかり。
 「吾妻に下らないで、勝頼公のそばに居ればよかった。」と大声を上げて泣いたと伝わる。

 武田が滅亡した事により、独自に生きる道を選択することを迫られることとなった真田昌幸であったが、武田信玄から吸収した外交・戦略、父・真田幸隆から受け継いだ神出鬼没の用兵が、生涯、戦国大名へと独自に進む上で役に立つ事となった。
 加津野家を継いだ真田昌幸の弟・信尹も武田家滅亡後は真田姓に戻り真田信尹と称した。
 鉢形城主の北条氏邦は真田昌幸に手紙を送り、北条氏直への臣属をすすめたが、真田昌幸は織田信長に臣従する。真田昌幸は織田信長に馬を贈り、4月8日に本領安堵。滝川一益の旗下になる。

 真田昌幸は、下記の旧武田遺臣を迎え入れている。

 禰津氏、小山田壱岐守、原隼人の子・原三左衛門、原監物、板垣修理、内藤修理の子・内藤五郎左衛門、瀬下若狭守、大熊五郎左衛門、加茂氏、安中左近、白倉武助、丸山土佐守、来福寺左京、丸子三右衛門、浦野源太郎、室賀兵部少輔、青柳清庵、桜井勘左衛門、小泉源五郎、出浦対島守、羽田筑後守

 そして、1583年6月2日、明智光秀による本能寺の変で、織田信長が死去した。

 本能寺の変により北条氏直に臣従するが、徳川家康の傘下へ

 織田信長の死が厩橋城(前橋城)の滝川一益に伝わったのが6月9日。滝川一益は明智光秀を討つ為、兵を厩橋城に集めて16000の兵力で6月16日出発し倉賀野城に入る。しかし、上野奪回の為、北条氏直が56000の兵を進めている知らせが入り、6月18日に神流川の戦いとなったが、滝川勢は大敗する。
 滝川一益が厩橋城を見捨てて本拠地の伊勢長島城に逃亡すると、真田昌幸はやむなく北条氏直に臣従する。一説によると真田昌幸が滝川一益が碓氷峠から小諸を経て逃走するのを手助けしたとも言われている。
 真田昌幸は、旧領・沼田城をなんなく奪い返したが、旧武田領の甲斐・信濃・上野の空白地帯となり、駿河・徳川家康、相模・北条氏直、越後・上杉景勝らが勢力を争うことになる。
 1582年7月12日、北条氏直が海野平に進攻し、真田勢は北条の圧迫を受ける。
 しかし9月28日、真田昌幸の弟に当たる真田信尹(旧名・加津野信昌)や依田信蕃の斡旋により、真田昌幸は北条を見限り、徳川家康に寝返り、本領安堵と甲州で2000貫を得た。
 しかし、徳川家康が北条氏直との和睦条件として沼田領を譲渡すると発言。代替地が不透明な事もあり「沼田は弓矢に問うて切り取った土地。徳川殿からの頂戴した土地ではない。」と真田昌幸は反発し、徳川家康と対立。以後、徳川・北条と敵対していた越後の上杉景勝に近づいた。
 1583年1月、埴科の虚空蔵山で真田昌幸は上杉勢を破る。4月、上田城の普請開始。城下町の建設にも乗り出し居城を砥石城から上田城に移した。

 1584年、真田昌幸は小県の丸子城を落とす。そして、出浦氏、長井氏らが真田に帰属する。
 1585年5月、真田昌幸の勧めで高井の須田信正が上杉景勝に反す。6月21日には沼田城代・矢沢頼綱の子・矢沢頼幸に上田領内の足軽衆を付属させた。

 上杉景勝と同盟すると徳川家康に攻められるも豊臣秀吉の仲介により以後、豊臣秀吉に臣従

 徳川と北条を敵に回した真田昌幸はたまらず、1585年7月15日、 越後の上杉景勝と同盟する。真田幸村(真田信繁)を上杉に人質として出した。一度上杉を裏切った事があった為、臣従の証として真田幸村(真田信繁)だけでなく、叔父・矢沢頼綱の嫡子・矢沢頼幸と軍兵も越後に送った。そして、上杉景勝より九ヶ条の起請文を受ける。その中には、真田に手違いがあっても、謀反の噂があっても、惑わされずに上杉景勝は情をかけるとも記載されている。
 これに対して徳川家康は北条氏直と連合軍を組み真田攻めを開始。北条氏邦は沼田城に侵攻。7000を率いる鳥居元忠大久保忠世平岩親吉らは上田城攻め。上田城近くの神川西まで侵攻した徳川勢を城下まで誘い込み、真田昌幸と子の真田信幸は僅か2000(諸説あり、5000とも)にて包囲攻撃し8月2日に撃退、約1200名を討ち取った。徳川勢は上田城攻略失敗の閉塞感を打破する為、丸子城攻めを敢行するがこれも失敗する。徳川勢は退却せずに、上田城への再攻を伺っていたが、徳川家の重臣・石川数正が豊臣家に寝返った事から全面撤退した。

 この徳川勢の大軍相手に大勝利したことにより、真田昌幸の武名は天下に知られる事となる。
 9月5日には禰津昌綱が真田昌幸の同心に加わる。9月29日、北条勢が沼田城を攻撃したが矢沢頼綱は撃退する。11月~12月頃には真田昌幸は、豊臣秀吉に臣従して、真田幸村は上杉から豊臣秀吉へ人質として出仕した。
 1586年5月25日、北条氏直は沼田城を攻撃するが敗退。7月17日、再び真田昌幸を討つために徳川家康自ら駿府まで出馬。19日には甲府に入る。8月3日、豊臣秀吉の奉行・増田長盛石田三成より、真田昌幸は「表裏比興の者」と称される。8月7日、豊臣秀吉が徳川家康に働きかけ、徳川家康の真田攻めは中止。
 ただし、豊臣秀吉は上杉景勝に真田昌幸支援を禁じ、徳川家康家臣の水野忠重に真田討伐を指示する書状を送った。さらに上杉景勝にも信濃国割を伝え徳川家康と協力するように命じ、真田昌幸の領する上州沼田についても指示している。
 しかし、この真田討伐は突如中止。10月、徳川家康はついに大坂に行き、豊臣秀吉に臣下の礼をとった。
 これにより、豊臣秀吉は関東を徳川家康に任せることにして、上杉景勝へは真田昌幸が所領を徳川家康に返せば罪を免じると知らせ、真田昌幸の上洛を命じた。11月4日、豊臣秀吉の命により、真田昌幸は徳川家康の与力大名となる。
 1587年3月、真田昌幸は駿府に出向き、徳川家康と会見。その後、上洛して豊臣秀吉に拝謁。
 1588年、沼田城代の矢沢頼綱を沼田から呼び戻して、信濃小県郡内に知行を与える。
 1589年2月13日、真田信幸が徳川家康に出仕。徳川家康は真田信幸の才能を高く評価し、本多忠勝の娘・小松姫を徳川家康の養女とした上で、真田信幸に娶らさせた。
 豊臣秀吉が沼田領の裁定を下す。7月14日、沼田領の利根川より東を北条氏に明け渡し、真田氏は代替地として信濃伊那郡・箕輪領を与えられた。
 1589年11月3日、真田昌幸が在京している間に、北条氏邦の家臣・猪股邦憲が、真田領の名胡桃城を攻め、真田家臣・鈴木主水が自害する事件が起こる。この北条氏の行動に豊臣秀吉は、諸大名に対して北条征伐の宣戦布告状を11月24日達する。
 1590年3月、真田昌幸、真田信幸、真田幸村は3000の兵にて、前田利家を大将とした北国軍に加わり、上杉景勝・直江兼続前田慶次らと共に小田原城攻めに参戦。4月19日には松井田城攻め。この松井田城攻めが真田幸村の初陣とされる。6月には忍者を伴って、成田長親で知られる忍城攻めにも一時参加し、7月5日小田原城が降伏した。
 7月下旬、豊臣秀吉より沼田領を安堵され、真田昌幸は真田信幸に支配を委ねた。
 1592年3月、真田昌幸、真田信幸、真田幸村は朝鮮の役に参陣する為、肥前・名護屋城に赴く。1593年8月、真田昌幸は名護屋より大坂に戻り、そして上田に入った。12月、真田信幸が伏見城普請を命じられ、1594年3月伏見城普請開始。真田昌幸、真田信幸、真田幸村(真田信繁)の3人分で役儀を1680人と定めた。11月、真田信幸が伊豆守、真田幸村が左衛門佐に任ぜられる。
 1598年8月18日、豊臣秀吉が死去。


 ※写真は真田昌幸の甲冑

 石田三成に協力するか、徳川家康に協力するか、究極の生き残り術

 1600年、真田昌幸、真田信幸、真田信繁は在京しており、徳川家康に促されて会津の上杉景勝を討つため、国元に戻り出陣の準備を行い、7月の上旬に上田を発ち関東に向かう。宇都宮で徳川勢と合流する予定だったが、 7月21日、下野・犬伏の陣に石田三成の密使が真田昌幸に届く。その長束正家、増田長盛、前田玄以の連署状を見て、真田昌幸、真田信幸、真田信繁の3人は今後の真田家の方針を話し合った。真田昌幸の妻・山手殿羽柴秀長の家臣で13000石だった宇多頼忠の娘であるが、宇多頼忠のもう1人の娘は石田三成の正室になっているだけでなく、山手殿自身、大阪で石田三成の人質になっていたと考えられる。
 真田信幸は徳川四天王の1人・本多忠勝の娘(徳川家康の養女)を妻に迎えており、一時、徳川家に出仕もしていた事から、徳川家康を裏切る事はできない。
 このような事情から、真田昌幸と真田幸村は石田三成につくことを決めて徳川の陣を離れ上田に帰参。真田信幸はこのまま徳川勢として小山に進み、徳川秀忠にその旨を報告。この真田の決断は、犬伏の別れとも呼ばれている。

 徳川家康は7月24日小山に着陣すると、即日、真田信幸を賞して、離反した真田昌幸の所領についても真田信幸に安堵させた。
 一方、真田昌幸と真田幸村は今生の別れと、上田に引き返す途中、沼田に寄って孫(真田信幸の子)の顔を見てから上田に帰ろうと思い、夜半に沼田城に使者を出し入城を申し入れたが、城を守る真田信幸の正室・小松殿は入城を拒否したと言われる。
 ただし、翌日、沼田城下の正覚寺に孫を連れて小松殿は真田昌幸と会ったと伝わる。そして、真田昌幸と真田幸村(真田信繁)は7月23日に上田に帰参。
 宇都宮城を8月24日に出発し、中仙道を通り、関ヶ原を目指した徳川秀忠軍38000は、9月2日に小諸城に到着。翌日、真田昌幸と、徳川秀忠軍に同行していた兄・真田信幸と本多忠政が会見。真田昌幸は頭を丸めて降伏する旨を伝えたが、上田城に兵糧・弾薬などを運び込み、上田城周辺の各所に伏兵をしのばせるなど、軍備を固める為の時間稼ぎであった。降伏の約束を守らない真田昌幸に使者を出したが、逆に宣戦布告されると徳川秀忠は怒り、9月5日攻撃命令を出す。

 砥石城には真田信繁(真田幸村)が入っており、徳川勢に抵抗する姿勢を見せたが、真田信幸勢が砥石城に進撃すると、真田幸村は兄との戦闘を避けて上田城に撤退し、砥石城は真田信幸が占領し守備した。
 徳川秀忠は9月6日に上田城外の染谷台に陣を進め、上田城を包囲。様だ昌幸と真田信繁が約50騎を率いて城外に偵察に出たのを見た徳川勢は、真田昌幸らを追って上田城に接近し、上田城付近に潜んでいた真田の伏兵と戦闘となった。徳川軍は次々に兵を進めた所に、伊勢崎城(虚空蔵山)から討って出た伏兵が、手薄になった徳川秀忠本陣を襲撃。更に真田鉄砲隊が射撃開始し、真田幸村隊が城から討って出て、徳川秀忠軍を挟み撃ちし、徳川勢は損害を被った。
 その後、徳川勢は援軍を得たので、真田昌幸、真田幸村は2000で上田城で篭城。徳川秀忠は9月9日に上田城攻めを諦めて、先に進む事を決意した。
 このように徳川勢は二度にわたって真田昌幸に敗れたこととなる。

 この時、真田昌幸は、大阪に駆けつけず、あえて上田城の防戦に徹し徳川勢の進行を遅らせただけでなく、徳川秀忠の首は狙わなかったとされている。
 万が一、石田三成の西軍が敗れても、大戦に参加していなければ、真田は生き残る可能性があるだろうと言う計算と、徳川秀忠勢が関ヶ原に向かうのを遅らせて、石田三成の勝利に貢献した場合でも真田は生き残ると言う2面性の作戦であった?ように思えてならない。

 結果的に、関ヶ原へと急ぐ徳川秀忠は、砥石城には真田信幸と、小諸城には仙石秀久を引き続き入れて上田城を牽制したこともあり、真田昌幸は上田城から出て追撃する事は無かった。
 そして、徳川秀忠は悪天候もあり、9月15日の関ヶ原決戦に間に合うことも無かったのである。

 関ヶ原の結果、石田三成に協力した真田昌幸と真田幸村は窮地に立たされる。
 真田信幸は父・真田昌幸と決別すべく、名前を信之に改めて、以後、真田信之と名乗り、真田昌幸と真田幸村には上田領没収と死罪が下されると、徳川家康に味方した真田信之は懸命な助命嘆願をする。真田昌幸と真田幸村は何とか命は助けられ、16人の家来と高野山麓の九度山に蟄居。山手殿は真田信之に引き取られ上田に留まった。この後、出家して名を寒松院と改めている。九度山に付き従った16人の家臣は真田十勇士の元とされている。

 九度山に向かう際「悔しい。家康をこのようにしてやりたかった」と真田昌幸は涙ながらに語ったともされている。
 真田昌幸53歳、真田幸村(真田信繁)33歳の時のことであった。

 真田信之は沼田領30000石に加え、旧領30000石も安堵され、合計95000石で上田藩主となった。
 真田昌幸と真田幸村は九度山の真田庵で暮らし、真田信之からの仕送りもあったが、有名な「真田紐」を作り販売もしたという。
 1603年2月、徳川家康が征夷大将軍に任じられ、江戸幕府が開かれる。
 1611年6月4日、大阪の陣を目前にして真田昌幸は配流先の九度山で病死。享年65歳。本領の真田長谷寺に葬られたが、正式の葬儀は行われず、真田昌幸の一周忌がすむと、上田から真田昌幸に随行した家臣の大部分は帰国し、真田信之に帰参した。

 以上、愚生の大変長い文章を最後までご覧頂きましたこと、謹んで深く御礼申し上げます。
 下記のコメント欄にも、是非、皆様の真田昌幸に対する思いを残して頂けますと幸いに存じます。
 ありがとうございました。

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皆様の真田昌幸イメージ

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徳川家康以上の狸じじいという印象。負けそうになると武田→織田→北条→豊臣→徳川と臣従先を替えている。
それなのに息子2人は純粋すぎる。父親が半面教師だったのかも。
一方で昌幸の父や叔父など真田家は勇猛な武将が多いので昌幸だけが特別だった可能性も。

真田幸村の親として有名。幸村以上の知将として、戦国時代をうまく生き抜くことと戦時の戦術に長けているイメージがあります。

織田信長にして、真田が率いると農民すら精鋭になると恐れられた武将で武田方でも随一の武将だと感じてます。
真田丸でも徳川家康を追い回した話がでていましたし、武勇知略に優れた武将というイメージがあります。

真田昌幸と言えば関ヶ原へ向かう徳川秀忠の別動隊を足止めし、合戦へ遅参させたことが有名です。
とても有能な武将ですが、大名としての規模としては小さく、西軍に味方したことは彼の一世一代の大博打だったのでしょう。
結果としては西軍が敗北し残念なことになりましたが、彼の有能さは後世に伝わっています。
また、息子の信幸を家康に味方させることで真田の家系は残りました。

知恵も、度胸も、信念もある、あの時代でトップクラスの実力者だと思います。
大国を相手に怯む事の無い姿は、現代に生きる我々にとっても大いに尊敬できる人物です。

北条家、徳川家、上杉家等に囲まれ常に滅亡の危険に晒されながらも、真田家を存続させるために頭を使って生き抜いたという印象があります。
戦も上手で、少数にて徳川秀忠の大軍を足止めさせて、関ヶ原の戦いに遅れさせたことはとても印象深く、もしそれにより西軍が勝っていたら世の中がどうなっていたのかと思わず想像してしまいます。

真田昌幸は、同盟を結ぶなどして上手く立ち回って家を存続させることに尽力をしたので、賢い策略家というイメージです。

真田昌幸は、関ヶ原の前哨戦たる徳川秀忠軍との戦いで秀忠軍にダメージを与えたことが印象深いです。
圧倒的戦力があり、関ヶ原の戦いでは東軍の主力となる予定だった秀忠軍を、城に籠城しつつも機転を利かせ攻め込み打ち負かしたのはすごいと思いました。
晩年は高野山に幸村とともに蟄居させられましたが、その後、幸村が父親から学んだ戦略を駆使し、大坂の陣で活躍するのは胸が熱くなりました。

武田信玄の薫陶をうけ、豊臣秀吉を唸らせ、徳川家康を恐れさせた「表裏比興の者」。
知略、謀略を駆使し真田の礎を築いた男。

武田信玄にして「我が眼がごとく」と言わしめ、徳川の大軍を2度にわたって敗走させるなど、この時代きっての武将である。

昌幸の策略を卑怯だという人も少なくありませんが、策略は小国の領主としての生き残るための知恵です。尊敬に値すると思います。

真田昌幸は三男で武田信玄にその才覚を愛された謀将である、今でいう懐刀的存在であろうか。
真田は小領主で武田に服属後は忠義を尽くしてきた家である。
信玄~勝頼時代はあまり目立った活躍はない。
しかし武田が滅亡になり真田家に危険が訪れるようになると、この男は生き残りをかけて牙をむき始める。
武田を滅ぼした織田につき、上杉、北条、徳川と仕える先を変える事に枚挙の暇がない変節漢ぷりを発揮し始める。
これだけ見れば三国志の呂布ばりにコロコロと主を変える様に見えるが、仕えた先も先だと私は感じている。
降ったり仕えても救援はしない領地は引き渡すけど代替地は無しな、では誰がそのまんま仕えるであろうか。
反対に武田時代は一心に仕えていたところを見ると、この男には領土を与えて平和にしておけば要らざる謀反気は起こさないんではないかなーと感じている。
敵にすると恐ろしいが味方にするとこれほど頼もしい奴はいない、ちゃんと評価してきっちり報酬を与えていれば問題なかった、そんなイメージである。
不安定な地方の小勢力出身故に安定を求めていたのかもしれない、そんな風に思うのだ。

真田昌幸の葬儀の時にも「重罪人であるから幕府の意向を確かめたほうがいい」と忠告されているぐらいには死後でもなお徳川家を恐れさせた存在であった。
反骨精神が強く、頭もいいため権力者たちにとっては手を焼く厄介な存在だと思う。
擬人化するならばかなり「強い上に目立つキャラクター」として映えることとなるだろう。
真田昌幸自身も戦国時代の知将として有名であるが、後に真田十勇士を従えて徳川家康に挑んだ真田幸村の父としてのイメージが強い。

戦国時代末期から江戸時代初頭の大きな歴史の転換期に主君の滅亡をと共に家を途絶えさせることなく存続させた知将というイメージを私はもっています。

真田昌幸は戦国時代の人物であり、武田信玄の家臣として寵愛された。武田氏滅亡後も豊臣政権下で生き残り、徳川家康が恐れる存在であったが、関ケ原の戦いに敗れて改易され、力を失った。

武田信玄に「我が眼がごとく」と言わせ、徳川の大軍を二度も破ったことから、知将・謀将というイメージが強いです。
また、忠誠心や義理といったものがあるようでないような妖しい魅力があります。

真田昌幸は、戦国乱世の中でも激動の時代に生きた人です。
その時代に、小さな国の領主でありながら、大勢力に対抗し、家を守り続けた「智慧」には恐れ入ります。
肝のすわった人物であり、息子の幸村よりもすごい人物だったと思っています。

真田と聞くと真田幸村のイメージを浮かべるのですが、幸村とは違って凄く強い男というイメージ。徳川家康を追い返したのは素晴らしい。

国衆でありながら、織田信長、徳川家康に一目をおかれる、知将。
また、最後まで武田信玄に忠誠を誓った義理堅い人物。

表裏比興の者と称されるように非常に世渡り上手な人物だという印象が強いです。
主をコロコロと乗り換える様はあまり良い印象を持たない方が多いかもしれませんが、乱世において幾度窮地に追いやられても生き残ることが出来たのは、彼の知略があったからこそだと思います。

真田家の中でも表裏比興のものと呼ばれているだけあって、とても頭がよく、また一筋縄ではいかないという言われているので、戦国武将の中でもなかなか凄い人なんじゃないだろうかと思っています。

真田昌幸といえば知略・謀略に長けた人物であるという印象が強い。
父の幸隆の代から武田氏配下でありながら武田氏滅亡後は織田信長に仕え、信長死去後は北条・上杉・徳川の三大名と領地を接しながらも滅亡することなく豊臣氏配下となることに成功する。
そして関ヶ原の戦いにおいても長男の信之を徳川方、自身と次男の信繁が豊臣方とすることで家の存続も図った。
武田・織田・豊臣・徳川と当時の有力大名の支配下におさまりながらも江戸時代まで家を存続させる礎となったのが昌幸といえるだろう。

内陸で小さな国でありながら、強力な勢力に囲まれ戦国時代を駆け抜けたというのはとてもすごいことだと思います。
同時期の戦国の小説を読んでの印象では、とても世渡りがうまく人との折衝が上手な人物だったのかなという印象を持っています。

真田昌幸はおそらく今で言うイケイケな性格で考えるよりもすぐに行動に移すタイプの人だと思います。
そんな真田昌幸についていく人も多く人望も厚かったでしょう。

何よりも「真田家」を後世まで残すことを考えた人物。
そのために血で血を洗う戦いとなることがわかっていても、その道を選んだ信念は凄い。

真田昌幸は、真田幸村の父親で「徳川家康が恐れた」と云われる武将。
NHKの大河ドラマ『真田丸』では草刈正雄さんが演じています。
頭が良くて、スマートな印象です。
表裏比興の者、と評されたことからもかなり頭の切れる人だったに違いありません。
武将にとってこの上ない褒め言葉でしょう。
もしかしたら、現在のビジネスの世界でも褒め言葉になるかもしれません。

戦国武将真田昌幸は裏切り者のようにみえるが、実はずる賢く緻密に行動し、先見の明をもつ天才肌の持ち主だと思います。

真田家は戦闘民族だと思います。上田城ゲリラ戦が得意など、真田幸隆など親子3代でみてもバトルセンスが高かったんだと思います。

真田昌幸は強国に挟まれた小国に生まれ、幼い頃より武田の人質として武田信玄に仕える中、機知と知略を身に着けました。
武田滅亡後も、それらの才能を駆使して近隣大国と渡り合い、織田信長、後には豊臣秀吉に仕えます。昌幸の生き様を見てみると、ただ次から次へと強い者に仕え渡り歩いたというより、これはと見込んだ君主には、裏切ることなくその最後まで共に歩んでいるのが見て取れます。
関ヶ原の戦いの後、徳川家康に屈服し10年に渡り幽閉され亡くなりますが、徳川の世になるだろうと判った上で、自身の心情を貫き通し最後を迎えたように感じます。
知略で乱世を生き抜いただけでなく、その中に「義」を充分に感じ取れる武将だと思います。

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コメント

    • トニ
    • 2016年 1月 13日

    はじめまして。

    最近、天正壬午の乱について詳しく知りたくなりこちらのサイトに辿りつきました。
    このサイトを知りいつも楽しみに記事拝見させて頂いております。
    今まで名前しか知らなかったマイナーな武将も詳しくしることができ高揚感でいっぱいです(笑)

    さて、今回メールさせて頂いたのは真田昌幸の本拠地と支配地域について疑問に思いご教授お願い申し上げます。

    大河ドラマ「真田丸」を見ていて織田の侵攻により勝頼を岩櫃城に誘いますが武田家家臣時代の真田昌幸の統治地域ってどの範囲になるのでしょうか?この当時の真田昌幸の本拠地は上田城ですか?

    真田昌幸の城といえば上田城という印象でしたので岩櫃城??という感じでした。

    • 高田哲也
    • 2016年 1月 13日

    トニさま、この度はコメントとご質問、誠にありがとうございます。

    真田家は元々、小県(ちいさがた)が本領です。

    吾妻を攻略した真田幸隆が、そのまま吾妻を統治する事になり、所領が増えました。
    そして、岩櫃城を主導して改修したと推測できます。
    その為、その真田家を継いだ者としては、対上杉家・対北条家を考慮しますと、岩櫃城は最重要拠点となるだけでなく、防御も岩殿城同様に優れています。

    小県の上田城に関しては、大河ドラマ「真田丸」でも、そのうち放送されますので、ご理解頂けるかと存じますが、武田勝頼の時代にはまだ上田城はありません。
    真田昌幸が徳川家康の与力になった際に、上杉家を牽制する為、徳川家に頼んで費用を出してもらい、上田城が築かれました。

    上田城ができるまでの小県に関しては、砥石城(戸石城)が実質的な防御拠点だったと思いますが、真田の本拠地は真田氏館であったと推測できると思います。

    また、ご質問がございましら、遠慮なくお寄せ下さい。(^-^)

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