明智光秀とは?数奇なその生涯~本能寺の変と最後の地「明智藪」~詳細年表


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一介の浪人から織田信長に仕えると、その卓越した才能を発揮し、織田家の中でも異例の出世をする。
所領では税金を軽減して治水工事を行うなど善政も見られ、はたまた連歌会を催すなど教養も豊かな片りんを見せている。
そして、織田信長の天下統一に尽力するも、あと一歩という時に突如謀反を起こし、本能寺の変にて織田信長を討った。

織田信長を討つも味方する者はなく、山崎の戦いにて豊臣秀吉に破れ、逃走中に土民に襲撃されて、わずか11日の天下であったとされる明智光秀
そんな明智光秀の生涯を年表形式にてできる限り詳しく掲載したい。

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明智光秀の生涯

1528年、明智光秀が生まれたとされる。

若い頃には、のち恵林寺で焼かれる事となる快川紹喜からも教えを受けたとされる。

1546年、最初の妻(正室)・千草(山岸光信の娘)と結婚するが、のち死別したようだ。

1553年 、明智光秀26歳の時、継室として煕子(19歳)と結婚。煕子は妻木範煕の娘。

1556年、斎藤道三を討った斎藤義龍が明智城を攻撃し、
9月26日落城。明智光秀の叔父・明智光安が討死し、明智光秀は本拠を失い浪人。困窮する生活の中、妻・煕子は自分の黒髪を売って助けたと言う。
母方の若狭武田氏を頼り、のち越前国の朝倉義景に仕えた。

1566年 、足利義秋(後の足利義昭)が朝倉義景の一乗谷城に亡命した事から、明智光秀(39歳)は足利義秋の幕臣となった。

1567年 、足利義秋と織田信長を仲介。

1568年7月27日、足利義昭を立政寺で織田信長と会見させた。

1569年、三好三人衆が足利義昭を襲撃したが、明智光秀らが撃退。織田信長より羽柴秀吉とともに二条御所の普請を命じられ、、丹羽長秀、中川重政と共に京都奉行に任じられた。

1571年 、比叡山焼き討ちで中心的役割をし武功を上げ、織田信長より近江国滋賀郡50000石を与えられ、足利義昭と決別し、織田信長の直臣となった。

1572年 、坂本城の着工を始めて、1573年に坂本城に入っている。また、志賀郡北部の木戸城・田中城を攻略し、柴田勝家らと共に摂津国河内を転戦した。また、小谷城攻めにも参戦。

1573年 、本願寺勢が籠る今堅田城を攻略。

1574年 、岐阜城で年賀の挨拶をし、大和郡山城に入った。

2月1日、東美濃に侵略してきた武田勝頼を討つため、織田信長と共に東美濃に出陣。織田信長の命により、4女・珠子(玉子、細川ガラシャ)を細川藤孝の嫡男・細川忠興に、5女を筒井定次の妻にすることを約束。

1575年、織田信長より丹波攻略を命じられ、7月3日、惟任日向守に任ぜられる。
8月23日、丹波攻略より越前攻めが優先され、越前国制圧後、羽柴秀吉と共に先鋒となり、加賀国へ攻め込み、9月23日、坂本城へ帰陣。

1576年1月15日、荻野直正が拠る黒井城攻めの最中に、波多野秀治が明智光秀に叛き、八上城に引き上げた。
1月21日、黒井城を包囲していた明智勢は八上城の波多野秀治の攻撃をかわし、て摂津国を抜け、坂本城に帰陣。
2月、丹波攻略中に織田勢に合力した国人・土豪衆を助けるために兵を3月まで丹波に駐屯させた。
4月、本願寺顕如石山本願寺攻めをより命じられて出陣。
5月11日、石山本願寺攻めの最中に天王寺の陣所において病で倒れた。
11月7日、明智光秀が重病となった際の看病疲れが元で妻・煕子が病没(享年42歳)。

1577年8月17日、天王寺砦の松永久秀・松永久通父子が織田信長に謀叛を起こし、信貴山城に籠城。
10月3日、総大将ろ織田信忠の元、明智光秀、細川藤孝、筒井順慶らと共に信貴山城を攻撃。
10月10日、信貴山城の松永久秀が自刃(享年68歳)して、信貴山城は落城。
10月16日、細川藤孝・細川忠興父子らと共に丹波亀山城を攻撃。
10月19日、丹波亀山城が降伏。

1578年2月、丹波亀山城の修復を開始。

4月、織田信長より石山本願寺への転戦を命じられる。
5月、毛利軍と戦闘中の羽柴秀吉を助けるため、播磨国へ出陣し、7月、坂本城へ帰陣。
10月17日、荒木村重が謀反。
11月9日、荒木村重を攻撃する織田勢に加わる為摂津に出陣。
11月14日、織田軍が荒木村重の有岡城を攻撃。
11月16日、高山右近の調略に成功して高山右近が織田信長に降伏。
11月24日、織田信長が摂津国刀根山に着陣。荒木村重に同調する茨木城主・中川清秀を誘降する。
黒田官兵衛も救出され、12月11日、有岡城から引き上げた。

1579年2月28日、八上城攻略の為、丹波亀山城に入る。
6月2日、八上城の波多野秀治、波多野秀尚兄弟の命を助命する事と、明智光秀の伯母を人質として出すことを条件に、降伏するように勧告し、波多野兄弟はこれを受入れた。
6月4日、織田信長が降伏した波多野秀治、波多野秀尚兄弟を処刑。

1580年8月、丹波国攻略の恩賞として丹波一国290000石を与えられ、近江国滋賀郡の50000石と合わせて34万石となった。
丹波亀山城・横山城(福知山城)・周山城を築城し、黒井城主には家老の斎藤利光を配置した。

1581年2月28日、明智光秀が責任者として、織田信長の他、丹羽長秀や柴田勝家を始め諸将が参加し、京の内裏東側で盛大に馬揃え(京都御馬揃え)を行い、正親町天皇も見物。
6月2日、18条にも及ぶ「明智光秀家中軍法」を制定。

1582年、織田信長に従い、甲斐征伐の為、安土城を出陣。

4月21日、武田軍と戦うこともなく、織田信長と共に安土城に帰還。
5月15日、徳川家康が織田信長に招かれて安土城に到着し、明智光秀が接待役を行う。
5月17日、徳川家康の接待役を途中で罷免されて、出雲国・石見国への出撃の命を受けると、安土城から坂本城に戻った。
5月27日、出陣の準備を整え、丹波亀山城に入る。
5月28日、戦勝祈願のため、愛宕大権現へ参詣。
6月1日、出陣したが、途中で行き先を京に変更した。
6月2日、本能寺に宿泊中の織田信長を襲い、自刃に追い込む。(本能寺の変) 二条御所も襲撃し、籠城した織田信長の嫡男・織田信忠をも自刃に追い込んだ。

本能寺で織田信長と運命を共にした近習で名が知られているのは下記の通り。
小河愛平・金森義入・菅屋角蔵・魚住勝七・武田喜太郎・大塚又一郎・狩野又九郎・薄田与五郎・今川孫二郎・落合小八郎・伊藤彦作・久々利亀・種田亀・山田弥太郎・飯河宮松・祖父江孫・柏原鍋兄弟・針阿弥・平尾助・大塚孫三。

明智光秀はその後、溝尾庄兵衛を勝龍寺城に入れた。
そして、瀬田城主・山岡景隆が瀬田橋を焼き落として甲賀へ逃亡。

6月3日、瀬田に到着するも瀬田橋が落ちており、安土城へ向かわず、一端坂本城へ戻った。
6月5日、瀬田橋を修復して、長浜城佐和山城を攻略し、安土城を占領。
6月7日、勅使の吉田兼見を安土城に迎えた。
6月8日、坂本城に帰還し、吉田兼見は京へ戻る。
6月9日、軍勢を率いて上洛。
6月10日、畿内を完全に制圧するために河内へ出陣。
6月11日、羽柴秀吉が京に向かっている報を受けて、迎撃の準備を開始。協力を求めた細川藤孝や筒井順慶は誘いを拒絶。

6月13日、羽柴秀吉、中川清秀、織田信孝、丹羽長秀、蜂谷頼隆、高山右近、中川清秀らと天王山周辺の山崎にて激突(山崎の戦い)。
明智光秀は羽柴秀吉に敗れて、一旦、勝龍寺城へ逃亡。再起を計るため、深夜になって坂本城へ向かう途中、小栗栖村で落武者狩りの土民の竹槍に重傷を負い、家臣・溝尾茂朝に介錯させ自刃。享年55歳。

6月14日、明智光秀の敗報を知り、安土城の明智秀満が単騎で湖水を渡り坂本城へ退去。

明智藪(あけちやぶ)と明智光秀の胴塚

本能寺の変で織田信長を倒した明智光秀ですが、山崎の戦いにて羽柴秀吉(豊臣秀吉)に敗れます。
その時、明智光秀は坂本城を目指そうとして逃れたと言われております。
最初、勝竜寺城へ退却したあと6月13日夜に坂本城へ向けて出発しますが、この時従ったのは近臣ら数名とされています。

その途中、落ち武者狩りの農民に竹槍で襲撃されて、命を落としたとされるのは有名な話ですが、明智光秀が襲撃されたとされる「藪」(やぶ)があり、そこが明智光秀「終焉の地」とされています。
その場所は京都の小栗栖で「明智藪」と呼ばれています。

明智藪は「藪」(やぶ)と言うだけに、本当に「藪」です。

藪だけでは信じてもらえない為か、石碑もあります。

しかし、地元の伝承では近くにある小栗栖城(小栗栖館)の飯田家は、織田信長に仕えていた事から、その飯田一族が明智光秀を討ち取ったとされています。

確かに、山崎から坂本に逃れる経路としては、一番ラクに向かえる中間地点でして適切ですが、問題なのはこの飯田家が本当に討ち取ったのか?です。

もし、武将が明智光秀の首を捕ったのであれば、かなりの「手柄」ですので、豊臣秀吉が褒美を授けたなどの記録があってもおかしくありません。

本能寺の変を詳しく伝えている吉田兼見の「兼見卿記」によると、農民によって明智光秀の首は村井清三に届けられて、織田信孝の元へと送られると、最初は本能寺の焼け跡にてされさらたとあります。

もし、首を届けたのが名のある武将でしたら、農民とは記載されにくいと存じますので、飯田一族が討ち取ったとするのには、疑問が生じます。
もっとも、明智光秀も警戒しながらの逃走ですので、わざわざ織田家にゆかるある者の近くは通行しないでしょう。

下記は小栗栖城(小栗栖館)があった跡地にある小栗栖八幡宮です。

本経寺の境内には明智光秀の供養塔もあるのですが、ここまで行って、供養碑撮影するの失念致しました。

さて、明智藪の場所ですが、下記の地図ポイント地点となります。
地図では道路になっていますが、個人宅の庭先のようなところを入りますので、最初、良くわかりませんでした。
地図は縮尺を変えてご覧願います。

ただし、この付近は地図で見る以上に道がとても「細い」です。

小型車でも幅ギリギリでして、サイドミラーを脇の茂みにこすりながら進む感じです。
今回は、本経寺の駐車場を利用させて頂いたのですが、本経寺に行くにしても、地図の北側から回り込んだ方が無難です。

明智光秀の胴塚

明智藪から約2km離れた場所には「胴塚」があります。
首塚は明智光秀の家来・溝尾茂朝が、首を持ち帰って埋葬したと伝わりますが、溝尾茂朝は明智光秀を介錯したあとにすぐ自刃したとも伝わりますので、こちらも真偽のほどは不明です。

この明智光秀の胴塚も、場所がわかりにくく、注意してみていないと通り過ぎてしまいます。
下記の地図ポイント地点が、まさにその「胴塚」の場所を示しています。

地図では道路沿いに見えるかも知れませんが、正確には道路沿いではなく、道路脇の空き地(私有地・駐車スペース)と建物(建築資材屋さん?)の脇となります。
下記の写真をご参照願います。

すぐ近くに、コイン精米があるので、それが目印になるかも知れません。
説明版などもなく、現在でも不遇な扱いの明智光秀と言えるかも知れません。
ちなみに、明智光秀の首塚は京都の八坂神社近くにあります。

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