井伊直虎とは~おんな城主になった訳と次郎法師を知ろう【2017年大河ドラマ】


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井伊直虎(いいなおとら)とは・・。
戦国時代に「直虎」と男性の名前を称して家督を継いだ「女城主」とは?
生涯独身を貫いた井伊直虎が遠江・井伊家断絶の危機を救った女領主となり、家名を存続させた波瀾万丈の「女地頭」とも称される浜松の女傑。
2017年大河ドラマ「おんな城主直虎」にて、女優・柴咲コウさんが演じる主人公・井伊直虎(いい-なおとら)が、なぜ「おんな城主」となったのか?など、できる限り詳しくご紹介したい。

井伊直虎(いい-なおとら)は、遠江・井伊谷(静岡県浜松市北区)の領主(井伊谷城主)・井伊直盛の「娘」として生まれた。大河ドラマでの初名は「おとわ」。
母は新野親矩の妹(祐椿尼)とされるが、誕生年は不明だが1535年頃と推定できる。
なお、繰り返しになるが井伊直虎と言う名は男性を連想させるも、女性で姫となる。

父・井伊直盛は男子に恵まれず、また姫もこの娘1人であったため、井伊家に婿養子を迎えようと、姫の名を「次郎法師」と名付けたとされる。
次郎法師(じろうほうし)とは、井伊氏の2つの惣領名である次郎と法師を合わせた名であり、井伊家一族や家中の結束を強める狙いもあったようだ。

迎える婿養子は、父・井伊直盛の従兄弟である井伊亀之丞(井伊直親)を予定した。
叔父に当たる井伊直満の子である。

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普通であれば成長した暁に、この婿養子・井伊亀之丞(井伊直親)を迎えて正室となる予定の「おとわ」でしたが、戦国時代の荒波にもまれて行く事となる。
簡潔に先に述べると、家臣・小野政直がこの婚約に不満を抱き、井伊亀之丞(井伊直親)の父・井伊直満らが自害に追い込まれ、命を狙われるようになった井伊亀之丞(井伊直親)は10年間も身を隠す事になる。
そのため「おとわ」は幼いうちから髪をおろして出家した。

婚約者であった井伊亀之丞が今川家に復帰した際には既に妻がいたことからも「おとわ」は生涯独身を貫く。
そして、桶狭間の戦いで今川家に従っていた井伊家では、おとわの父・井伊直盛も討死してしまう。
井伊直親が家督を継ぐも、家臣・小野政次の企みで暗殺され、まだ2歳の遺児・井伊直政が当主となる。
しかし、井伊直政も身の危険が迫ったため逃れる事となり、当主不在となった井伊家の「中継ぎ」として、女性ながらも次郎法師(おとわ)が当主に就任し「井伊直虎」と改名すると言う概要となる。

(下記は大河ドラマのロケ地にもなった高根城跡)

(下記は高根城跡からの眺め)

高根城は、こんなところです【高根城の情報】

詳しくご紹介する前に、まずは「おとわ」となる次郎法師(井伊直虎)が生れる前の「井伊家の動向」を少し記載しておきたい。

井伊家の家督は、井伊直平井伊直宗→井伊直盛(井伊直虎の父)と続くことになる。
※家系図も諸説ありますことご容赦願います。

井伊直平の代で今川家に臣従していたが、遠江を巡って尾張の斯波義達と、駿河の今川氏親が争うようになると、井伊家は斯波義達に味方したため、1510年から今川氏親の攻撃にされされた。

1514年、引馬城主・大河内貞綱が尾張の斯波義達と組んで、駿河の今川氏親に対して兵を挙げると、井伊直平・井伊直宗ら井伊家一族は大河内貞綱に協力して、領内の井伊城(三岳城、御獄城)に籠城した。
しかし、今川家の朝比奈泰以(朝比奈泰煕)による猛攻で落城し、井伊一族は、奥山城へ逃れたあとに今川氏親に降伏して没落した。
ちなみに、三岳城は、今川家の家臣・奥平貞昌が城番として入っている。

その後、1530年頃に井伊直盛の娘・次郎法師(井伊直虎)が生まれたものと推測する。
1532年、井伊直平が黙宗瑞淵を迎えて龍泰寺(のち1560年に龍潭寺に名称変更)を建立し菩提寺としたが、この龍潭寺も井伊家に大きく関わることになる。
なお、1536年頃に、亡き今川氏輝の後継者として花倉の乱を制した今川義元は、1537年に武田信虎の娘(定恵院)を正室に迎えて甲駿同盟を結んだ。
そんな中、1540年になると尾張の織田信秀が三河・安祥城を攻略し、松平家が今川家の従属下に入り、織田家と今川家は対立する事となった。

1542年8月、太原雪斎今川義元は西三河より織田家勢力を駆逐することを考え、井伊直宗と井伊直盛らは今川家の三河・田原城攻めに参陣し、小豆坂の戦いとなる。
この時、高齢の井伊直平から家督を譲られていた当主・井伊直宗が討死する悲運となり、子の井伊直盛(井伊信濃守直盛)が井伊家を継ぐことになった。
そして、前述したとおり、井伊直盛には跡継ぎがいなかったため、亡くなった井伊直宗の弟である井伊直満の子・井伊直親(8歳)を婿養子として迎え、次郎法師(井伊直虎)(6歳位?)と結婚させようとした。

しかし、井伊直親が将来家督を相続することを嫌った家臣もおり、今川家の与力・小野政直(小野和泉、小野政直、小野道高)の讒言によって、井伊直親の父・井伊直満と、その弟・井伊直義が武田信虎に通じていると、今川義元から謀反の疑いをかけられ、この2人は天文13年(1544年12月23日)、自刃に追い込まれた。
そのため、自害した井伊直満の子・井伊直親(10歳)は信濃・高森に落ち延びて身を隠したのだが、井伊家の内紛に関しては不明瞭な点もある。
下記は亀之丞が逃れた松源寺となる。

なお、井伊家(本家)では、逃亡した井伊直親を守るため、その逃亡先やその生死も極秘にしたようで、許嫁であった次郎法師(井伊直虎)は僅か10歳くらいで失意のうちに出家して、祐圓尼(ゆうえんに)と称したようである。
その後、祐圓尼(井伊直虎)には別の縁談が持ち上がったが、純愛を貫くために出家したとも?、井伊直親が死んだと思い出家して、この時、寺の住職が男子として将来井伊家を担えるようにと、次郎法師と名乗らせたとも?され、次郎法師を名乗った経緯には諸説ある。

井伊直親は約10年後の1555年になって今川氏に復帰した。
しかし、信濃に逃亡していた際に、援助を受けたと考えられる井伊一族(分家)である奥山親朝の娘(奥山朝利の娘とも?)を正室に迎えていたため、井伊直親が今川家に復帰しても、祐圓尼(井伊直虎)はそのまま生涯独身を貫いた。

1559年に尾張統一を果たした織田信長を攻略するべく、1560年5月、今川義元は尾張侵攻の大軍を動員。
この時、祐圓尼(井伊直虎)の父・井伊直盛は今川勢の本隊として先鋒を任された。
しかし、桶狭間の戦いで、今川勢は織田信長の奇襲に合い、松井宗信、久野元宗、由比正信、一宮宗是、蒲原氏徳らが命を落とした他、今川義元(41歳)や井伊直盛も討死。享年54(推定)
井伊直盛は、井伊家の菩提寺である龍潭寺に葬られた。

上記の井伊直虎の家系図はクリックすると拡大する。
※一部修正致しました。

井伊家の家督は?

男子がいなかった井伊直盛の跡取りとしては、今川家に復帰していた井伊直親が井伊家の家督を継いだ。
なお、1561年2月19日に、井伊直親の嫡男・井伊直政が井伊谷にて誕生。
しかし、今川義元が討たれた混乱の中で、三河の松平元康が自立の動きを示し、織田信長と清洲同盟を結ぶ。
この事は西三川の井伊家や引馬城主・飯尾連龍を動揺させただけでなく、井伊家の家中にも影響が及んだが、井伊直虎の動向までは掴めない。

井伊家の家臣・小野政次(小野政直の子、小野但馬守)が今川氏真(25歳)に対して、井伊直親が松平元康と手を組もうとしていると讒言。
今川氏真はすぐに討伐軍を送ろうとしたが、新野親矩(新野左馬助)が「まずは問いただすべき」と諫めてた。
謀反を疑われた井伊直親は駿府に呼ばれて主従20騎にて向かう。
しかし、途中の掛川城下にて1562年12月14日、今川家の重臣・朝比奈泰朝の家来約20人に取り囲まれ、井伊直親は殺害されてしまった。(享年28)
下記は井伊直親の墓所。

井伊家存亡の危機

まだ幼い井伊直政ら、井伊家一族にも累が及ぶところであったが、井伊直盛の妻(祐椿尼)の兄・新野親矩(今川家一族で新野新城主)が寿桂尼や今川氏真に嘆願し救われた。
この事は、幕末の大老・井伊直弼へと繋がった井伊家において最大のピンチが救われたと言って良いだろう。

しかし、家督を継ぐべき井伊直政はまだ2歳と言う事もあり、1563年、隠居していた高齢の井伊直平が後見役となり、ここではまだ井伊直虎は表舞台には立たなかった。

1563年から引馬城主・飯尾連龍(飯尾連竜)が犬居城主・天野景泰と天野元景の父子、二俣城主・松井宗恒らとともに今川氏真に対して謀叛を起こす。
今川氏真の命により、離反した天野景泰・天野元景親子の犬居城攻め(磐田の社山城攻)に、高齢を押して出陣した井伊直平であったが、1563年9月18日に有玉旗屋の宿にて急死する。
これは今川氏真の命を受けたとされる飯尾連龍(飯尾備前守)が、妻・お田鶴の方(椿姫)に頼んで、毒茶を呑まさたとされている。
家来も毒死したとあり、井伊直平の遺骸は、川名の向山に埋葬され、従者・大石作左衛門も自刃した。
更に2歳の井伊直政(虎松、万千代)までも命をもらわれた為、親戚の新野親矩(新野左馬助)が井伊直政を保護したと言う。

井伊直平を誅殺した飯尾連龍は徳川家康に寝返ったため、井伊家は今川家の命に従い、1564年に曳馬城を攻めた。
この曳馬城の戦いにて新野親矩や三浦正俊、井伊家重臣である中野直由らも討死し、家中を支える者を失ってしまう。

井伊家の危機的状況に、菩提寺である龍潭寺(りょうたんじ)の住職でもあり、一族の南渓和尚(南渓瑞聞)が井伊直政(虎松、万千代)を寺に匿った。

それでも、小野政次(小野但馬守)が執拗に命を狙った為、南渓瑞聞は奥山朝忠に命じて井伊直政を三河・鳳来寺へと移させた。
その鳳来寺でも危うくなったため、井伊直政の生母・奥山親朝(奥山朝利)の娘は、今川家臣・松下清景(松下源太郎)と再婚して、一時、井伊直政の井伊姓を捨てさせている。

女地頭・井伊直虎の登場

このような経緯もあり、男が途絶えてしまった井伊家は、当主不在と言う異常事態となる。
そのため、南渓和尚(南渓瑞聞)が考えたのは、出家していた祐圓尼(井伊次郎法師)が「井伊直虎」と名乗って、中継ぎとして井伊家の当主に就任させることであった。
1565年の事になるが、女性の武将として、尚且つ男性のような名前を称した為、現代におけるスマホなどのゲームの世界において、人気のあるキャラクターにもなっている。

井伊家伝記では

「次郎法師は女にこそあれ、井伊家総領に生まれ候」

とある。

家督を継げる男子がいない場合には直系の女性が家督を継ぐ事があり、実際に関東の古河公方家でも足利氏姫が女城主になっている例もある。
養子を迎えようと言う話もあったようだが、龍潭寺の南渓和尚(南渓瑞聞)が祐圓尼(次郎法師)を「男」として還俗させて「井伊直虎」と男性とも受け取れる名を称させると言う「女地頭」を提案をしたともされる。

不思議なのは、井伊家にて何かあるたびに抵抗を示していた、重臣・小野政次(小野但馬守)の妨害も無く、また、今川氏真もこの家督継承を認めている事である。
井伊直虎(井伊次郎直虎)が、女性国人領主・女性城主となる事で、家臣らは失望したもしれないが、持ち前の機転と交渉力にて小野政次を抑え、今川家の許可を得たと言う事なのかも知れない。

また、養母となって虎松(井伊直政)を寺で教育しようとしたが、虎松の母とは激しく対立した。
しかし、井伊直虎の思いが虎松(井伊直政)の負けん気に火をつけたようで、虎松が自ら寺にやって来て、家臣の子供らと共に学び、その主従の絆が将来の井伊直政を支えることにも繋がる。井伊家の部隊は「強い」と言う原点がここにあるのだ。
このように出家していた井伊直政を呼び戻して自身の養子に迎え、英才教育を施こすと戦国屈指の武将へと育てた。

井伊谷徳政令

相次ぐ戦乱で疲弊した村から年貢を取るため、井伊直虎は自分の足で確かめ、自ら汗を流して動き、安定した収入を生み出す産業を復興政策を進めると、次第に家臣らの信頼を得て行った。
堀川城を新築すると、瀬戸方久を城主に据えたともされる。

不作が相次ぎ借金がかさんだ農民は、徳政令(借金の帳消し)を求めて一揆も辞さない覚悟となり、今川家も井伊谷及び都田川流域に徳政令を出すように指示する。
しかし、これは井伊家を潰そうとした小野政次と今川氏真の魂胆もあったともされる。
井伊直虎が徳政令を出さなければ、今川家や領民を敵に回してしまう事になり、また徳政令を出せば井伊家の基盤が崩壊し領内経営が成り立たないと言う、厳しい判断を求められた。

そのため、井伊直虎はすぐに徳政令は出さずに、まず瀬戸方久ら世話になっている商人を保護し、井伊家の資金調達を優先させた。
また、徳政令に関しては商人・領民に対して説明する時間が必要だとして、今川家には時間稼ぎをしつつ、瀬戸方久らに「徳政令免除」の特別措置を与えた。

更に、お金を貸す事業もしていた菩提寺・龍潭寺に対しても、徳政令が出た際に、貸したお金は戻らなくても、担保の土地は徳政令から除外する特別処置を取る。

今川家からすぐにでも徳政令を行うようにとの再三にわたる要求にも屈しず、このように、農民・領民や商人・瀬戸方久らにも配慮し、徳政令による混乱を最小限に留めるよう1年以上準備したうえで、巧みに「井伊谷徳政令」を発布し領地を守った。
そのような事もあり、領内経営手腕に優れた「女地頭」と呼ばれたと言う。

こうして1568年11月9日、関口氏経と連署にて領内に徳政令を出したが、その直後にまたも小野政次(小野道好)の裏切りにあい、居城・井伊谷城を失ってしまう。
恐らくは今川家が小野政次(小野道好)に命じたものと推測される。

武田信玄徳川家康、遠江の今川家臣らは、武田勢に臣従する者も多かったが、井伊直虎の決断は、徳川家康であった。

井伊直虎は井伊谷三人衆(近藤康用鈴木重時菅沼忠久)と、三河の徳川家康(松平元康)の力を借りて、井伊谷城を奪還すると、以後は徳川家に臣従。
1570年には徳川家康に嘆願し、亡き井伊直親を事実無根の罪に陥れたとして、4月に小野政次(小野但馬守道好)を井伊谷の蟹淵において、獄門・張り付けに処した。
5月には小野但馬守の男子2人も処刑され、井伊谷城には近藤康用が入って井伊谷を回復する。

しかし、今度は1572年に、信濃から武田信玄が三河に侵攻。龍潭寺も炎上する。
武田の別働隊として長篠城から井伊谷に侵攻した武田家臣・山県昌景(山県三郎兵衛昌景)3000(5000とも)を、井伊谷3人衆は、井平城に進出して旧鳳来寺街道にて迎え撃ち、仏坂の戦いとなった。
井平城を守っていた井伊直成(井平飛騨守)も伊平(仏坂の戦い)で決戦を挑むも、井伊直成・鈴木重俊(鈴木権蔵)ら88名が討死したため、井伊谷3人衆、井伊直虎と井伊直政らは浜松城へと逃れた。

徳川家康は三方ヶ原の戦いで武田信玄に惨敗。
武田勢は、野田城を包囲したが、武田信玄が病に倒れ、1573年4月に甲斐へ帰国途中の駒場で亡くなった。

その後、1575年、井伊直政は徳川家康に見いだされ、井伊氏に復することを許されて、徳川家康の小姓に300石にて取り立てられている。
そして、井伊の赤鬼と呼ばれ徳川四天王として大活躍するのだ。
井伊直虎が南渓和尚(南渓瑞聞)や井伊直政の生母・奥山親朝の娘に相談して、徳川家康の趣味である鷹狩りの際に引き合わせたともされており、この時、手縫いの正装服と四神旗を井伊直政に贈ったと言う。

ちなみに1579年8月29日に徳川家康の正室・築山殿(関口瀬名、瀬名姫)(37歳)が殺害されているが、この築山殿の母は、今川義元の側室となった井伊直平の娘とされる。
すなわち、二俣城にて自刃した岡崎城主・松平信康(徳川家康の長男)と井伊家とは血縁関係でもあった。
この側室・井伊直平の娘は、のちに関口親永(瀬名義広、関口氏広?)に再嫁した模様だが、徳川家康の今川家からの独立すると今川氏真から謀反を疑われて、1562年に責任を取る形で夫と共に自害している。

さて、このように井伊家の滅亡危機を、女性ながらも見事な手腕で救い、務めを果たした強き女武将・井伊直虎は、織田信長が明智光秀本能寺の変で討たれた約3ヶ月後となる、1582年8月26日、龍潭寺中松岳院にて死去した。
これは、徳川家康(39歳)の伊賀越えを、井伊直政(21歳)が随行し無事に三河へ戻り、功労の褒美として徳川家康の陣羽織を井伊直政が受け取ったのを見届けた後の事であった。
戒名は妙雲院殿月舩祐圓大姉。推定だが享年47。

家督は22歳の井伊直政が元服して継ぎ、徳川家康の養女(松平康親の娘)を正室に迎えた。
※家督に関しては、15歳で徳川家康の小姓になった際に継ぎ、それ以降、井伊直虎はひっそりと暮らしたする説もある。

なお、井伊直虎の墓は、井伊家の菩提寺・龍潭寺で、許嫁であった井伊直親の隣にある。
法名は妙雲院殿月船祐圓大姉。
また、井伊直虎は形式上での井伊家当主であったため、歴代当主には記名されていない。

下記の写真は、井伊直虎が晩年を過ごしたとされる井伊谷の自耕庵(じこうあん)が、現在の妙雲寺(みょううんじ)。

本堂には次郎法師の位牌が安置されている。
なお、妙雲寺が所有する別の敷地には、次郎法師のお墓らしき墓石があるようで、2015年1月に浜松市の調査が入っている。

<お断り>

井伊直政以前の小領主であった井伊直虎時代までの井伊家に関しては、不明瞭な点が多いです。
この記事に限らず他の記事でも、できる限り史実に基づくようご配慮しておりますが、史料じたいの問題もあり、私たちが知る歴史上の認識が必ず正しいとは言いきれません。
大河ドラマ「おんな城主・直虎」は、ドキュメンタリーではなく「ドラマ」です。
すなわち「演劇」と言う創作物で、それをテレビ放送用に制作するのがテレビドラマです。
ドラマは100%史実で制作するものではなく、想像の部分となる「創作」が入りますので、上記とは異なる見解になる部分もあると存じますこと、ご確認申し上げます。
放送によって研究が進むこともありますので、新しい事が分かった場合など、常にこのページを更新して参ります。

戦国時代の女性城主(領主)の例

女城主と言う定義をどのような基準にするか?の問題もございますが、ご参考までに・・。

足利氏姫立花誾千代おつやの方お田鶴の方・椿姫小松姫(稲姫)など

井伊直政に関しても理解しておくと流れが分かりやすい
井伊谷の龍潭寺への行き方・駐車場や写真集など
井伊谷城への登り方や駐車場などの詳細はこちら
昊天と傑山~龍潭寺の僧で南渓和尚の弟子の井伊家での活躍
松下常慶とは~謎の山伏も井伊家復興に大きく貢献する
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コメント

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  • コメント (4)

    • 権兵衛
    • 2016年 10月 08日

    いつも楽しく拝見しています。
    文中「おとわ」がおこわになっている箇所があります。
    「おこわ」が食べたくなってしまいますので訂正いただければと思います。

    • 高田哲也
    • 2016年 10月 08日

    権兵衛さま
    いつもご覧頂きまして、誠にありがとうございます。
    また、お忙しい中、ご指摘を賜りまして、非常に助かります。ありがとうございます。
    恐らく、私が「おこわ」を食べたあとに作った文章かと存じます。
    大変失礼致しました。
    また、何かありましたら、お知らせ願えますと幸いです。

    • さちこ
    • 2017年 6月 03日

    とてもよく、井伊直虎の事がわかりました。
    ありがとうございます。
    これからも、色々な事を教えてもらえるとうれしいです。

    • 高田哲也
    • 2017年 6月 03日

    さちこさま、ご覧頂き誠にありがとうございます。
    今後も精進してまいります。
    高田

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