佐々成政~織田家のエリート武将も、最後は悲劇な人生を送った


スポンサーリンク
スポンサーリンク

佐々成政(さっさなりまさ)は、1536年1月15日に誕生か?
父は、尾張国春日井郡比良(現在の名古屋市西区)の比良城主・佐々成宗(佐々盛政)。
母は堀場宗氏の娘か?

佐々家は、元々は織田信安の家臣だったと考えられる。

兄に佐々政次、佐々孫介がいたが、佐々政次は1560年の桶狭間の序盤戦で戦死し、佐々孫介も1557年の稲生の戦いで討死していた為、1560年に家督を継いで比良城主となった。

佐々成政の正室は、慈光院(村井貞勝の娘)。

織田信長に仕え馬廻(直属の親衛隊)となり頭角を現した。
1561年、森部の戦いで敵将・稲葉又右衛門(稲葉一鉄の叔父)を池田恒興と共に討ち取る大功を立てた。
佐々成政は馬廻衆の中でも優秀だったようで、1567年、馬廻の中でもエリートである黒母衣衆に抜擢された。

 スポンサーリンク


1570年6月、姉川の戦いに先立つ「八相山の退口」では、織田信長から直属の鉄砲隊を預けられ、簗田広正・中条家忠らと3人で殿(しんがり)を務めた。
佐々成政は3人の中で唯一負傷したが、撤退戦自体は無事に完了すると言う活躍を見せている。

1574年、長島一向一揆との戦いで長男・松千代丸が流れ弾に当たって戦死。
佐々成政には男子が松千代しかおらず、次女を佐々清蔵(兄・佐々政次の子)に嫁がせて後継にしようとした。
 
1575年5月、長篠の戦いでは前田利家・野々村正成・福富秀勝・塙直政と共に鉄砲隊を率いて、武田勝頼を撃退し、大勝利に貢献した。

1575年9月、織田信長は越前の一向一揆を壊滅させ、越前を制圧すると、柴田勝家を北陸方面の軍団長として北ノ庄城に配置したが、その際、佐々成政・前田利家・不破光治と3人(府中三人衆)が柴田勝家の与力・目付として赴任した。
佐々成政は越前府中33000石を与えられると、小丸城を築いて居城とした。
府中三人衆は柴田勝家の与力とはいえ、半ば独立した織田軍の遊撃軍的存在で、本願寺顕如との石山合戦や、播磨国平定、謀反した荒木村重の討伐などに従軍している。
なお有岡城攻めでは、府中三人衆が荒木一族の処刑を命ぜられ、荒木だしなどを処刑した。

1578年8月、能登に侵入した上杉景勝勢を攻めるため、柴田勝家らと共に加賀に侵攻したが、七尾城が陥落した為、撤退した。

1580年からは、柴田勝家の北陸平定作戦に参加し、神保長住の助勢として一向一揆および上杉景勝に対する最前線であった越中国平定に関わった。
内政面では、度重なる河川の氾濫に悩まされていた領民のために、大規模な堤防工事を実施しわずか数年で水害を無くして領民に慕われました。この堤防は1580年の秋に完成し「佐々堤」と名づけられて現在でも、その遺構が残っている。

1581年2月、佐々成政は正式に越中半国を与えられ、1582年に神保長住が失脚すると越中一国の主となり、富山城を本拠として大規模な改修をおこなった。
そして、柴田勝家、佐々成政らは、上杉景勝の防衛拠点である魚津城を3ヶ月の攻囲の末に攻略し、あと少しで春日山城に迫る勢いであった。

しかし、明智光秀の謀反により、本能寺の変で織田信長が横死。跡取りに考えていた養子の佐々清蔵も本能寺で討死した。
変報が入ると、上杉家と対陣していた織田勢の各将はおのおの領地に引き返した為、上杉勢の反撃にあい、佐々成政は防戦で身動きが取れなかった。
そんな中、柴田勝家は明智光秀を討つべく、京に軍を発したが、毛利家と和睦した羽柴秀吉が中国大返しを断行し、先に明智光秀を討った。

清洲会議にて柴田勝家と羽柴秀吉との対立が表面化しても、佐々成政は柴田勝家に味方した。
柴田勝家は、羽柴秀吉と賤ヶ岳の戦いとなったが、佐々成政は上杉景勝への備えの為、富山城から動けず、叔父の佐々平左衛門に600の兵を付けて、援軍するに留めた。
賤ヶ岳の戦いは、前田利家の寝返りもあり、柴田勝家は北ノ庄城に敗走。その為、佐々成政は、娘を人質に出して羽柴秀吉に降伏し、越中一国は安堵された。

1584年、羽柴秀吉と徳川家康の間での合戦である小牧・長久手の戦いが起こると、当初、羽柴秀吉に味方する姿勢であった佐々成政だが、徳川家康織田信雄の連合軍に応呼し、ひそかに出陣。本隊はガラガラ坂(現・小矢部市)を越え、支隊は沢川(現・福岡町)の山道を越え、前田利家領内である能登・末森城を奇襲した。しかし、金沢城から前田利家が急行した為、挟み撃ちされて敗北を期している。越後の上杉景勝からの圧迫も受けており、苦しい2方面展開であったようだ。

織田信雄が羽柴秀吉に降伏し羽柴と徳川が和議となると、佐々成政は徳川家康に再起を説得する為、厳冬の飛騨山脈(北アルプス)・立山山系を自ら越えると言う、強行手段にて浜松城に入った。(さらさら越え)この旅は、徳川家康側の史料「家忠日記」にも記載されており、事実である。
しかし、説得に失敗し、織田信雄や滝川一益からも快い返事は得られなかった。

その留守中、愛妾(側室)の早百合が、佐々成政の近習侍と密通したとのウワサが立ち、激怒した佐々成政は早百合の黒髪をつかんで引きずり走り、この榎の枝に逆さ吊りにして、あんこう斬りめった斬りの惨刑に処したと言う伝承があり、早百合の一族である呉服村の住民も皆殺しにされたと言うが、これは後世の作り話である可能性が高い。
早百合は断末魔の苦しい声で「私は無実です。私の恨みで立山に黒百合が咲いたら佐々は滅びますぞ」とのろって息絶えたと言う。

また、アルプス越えの際に佐々成政は、万が一に備えて100万両(異説あり)の軍資金を複数の壷に詰め込んで鍬崎山(立山の裏にある内蔵助平という盆地状の秘境)に埋めたという伝説が地元に伝わっている。

1585年、羽柴秀吉は、10万の大軍を率いて、自ら越中に進軍し富山城を大軍で包囲。佐々成政は織田信雄の仲介を受けて降伏した(富山の役)。
一命は助けられたものの越中東部の新川郡10000石を除く、ほぼ全ての領地を没収され、妻子と共に大坂城下に移住。
以後、羽柴秀吉の御伽衆として仕えた。

九州・豊後の大友宗鱗が、薩摩の島津家から攻められ、豊臣秀吉に助勢を求めると、豊臣秀吉は、佐々成政を使者として大友宗鱗のもとに派遣。

1587年、九州征伐が開始されると、佐々成政は羽柴秀長軍に属して豊後府内(大分市)・日向を経て薩摩へ進軍。九州の雄である島津義久は、弟・島津義弘に家督を譲り、佐々成政らの取りなしで豊臣秀吉に拝謁して降伏した。
これらの功により佐々成政は肥後一国を与えられ、隈本城(後の古城)の普請を開始。

豊臣政権下での人材不足だった人事と考えられるが、豊臣秀吉も佐々成政の能力は評価していたものと考えられる。
しかし、佐々成政は、肥後に入ると早速に太閤検地を開始。すなわち、今までドンブリ勘定で税を納めていたところ、きっちり計算することになるとより税が重くなると言う事で、隈部親永(菊池郡・隈府城主)と、隈部親安(鹿本郡・山鹿城主)の親子が反発。
佐々成政は病に侵されていた為、急いだとも言われるが、反発を武力で抑え込もうとした為、反発した国人が一斉蜂起し、これに農民も一味同心して、天下を揺るがす肥後国人一揆となった。

佐々成政はこの一揆を単独で鎮圧することができず、近隣国への波及を恐れた豊臣秀吉は1587年9月、付近の武将たち(毛利秀包・小早川隆景・安国時恵瓊・鍋島直茂立花宗茂黒田官兵衛など)に肥後への出陣を命じて一揆と交戦させ、ようやく事を収めることができた。

理由はどうあれ、敵将だった者に寛大な処置により国を任せたにも関わらず、地元勢力が一揆し、更にそれを鎮圧できなかったことから、佐々成政は釈明と謝罪をするため大阪方面へ向かったが、尼崎で足止めされ幽閉された。そして、豊臣秀吉もさすがに処罰せざるを得なくなり、佐々成政に切腹を命じた。

1588年閏5月14日、佐々成政は摂津・尼崎の法園寺で切腹。生年が諸説あるため享年は確定していないが、享年53と推定。
兵庫県尼崎市の阪神電鉄尼崎駅からほど近い、法園寺に佐々成政の墓があるが、検使として立ち会ったのは加藤清正である。

事態を重く見た豊臣秀吉は、佐々成政の後任として、腹心の加藤清正・小西行長の2人を肥後に送り込み、肥後を分割して統治させることにしている。

佐々成政は、国人一揆の責めを負い、法園寺で切腹したが、その後の歴史に成政の子孫が多く登場する。

佐々成政の次女・岳星院は、関白・鷹司信房に嫁ぎ、7人の子女をもうけた。そのうち、嫡子・鷹司信尚は関白に、二女・鷹司孝子は徳川3代将軍・徳川家光の正室となったほか、孫・信子は五代将軍・徳川綱吉の正室になっている。
また、佐々成政のもう一人の娘は、狩野永徳の子に嫁ぎ、有名な「狩野探幽」を産んだ。

佐々成政の甥の佐々直勝は、加藤清正に召し抱えられ、その子孫には、浅間山荘事件で指揮を執った、初代内閣安全保障室長の佐々淳行氏がいる。

このほかにも、忠臣蔵でお馴染みの大石内蔵助の妻・りく、水戸黄門で有名な「助さん」こと佐々介三郎宗淳も、佐々成政の子孫であると言われている。

相良頼房と深水宗方・犬童頼兄~人吉城の相良家物語
大友宗麟(大友義鎮)~国崩し・豊後の王
加藤清正~肥後の虎・勇猛果敢で知られる熊本の戦国大名
石田三成とは~律儀で算術が得意だった才ある武将の印象も
菊池城と菊池武経や菊池義武~隈府城と隈部親永ら菊池一族の争い
熊本城の歴史と見どころ~肥後国人一揆と城親基とは(熊本地震の被害も)

スポンサーリンク

関連記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

 スポンサーリンク

気になる戦国女性

  1. 早川殿(はやかわどの)は、早河殿とも書きますが、今川氏真の正室になった女性です。 NHKの2017…
  2. 山手殿は宇多頼忠の娘という説が有力だが、武田信玄の家臣・遠山右馬助の娘とする説もあり、良くわかってい…
  3. 曳馬城主である飯尾連竜(いいお-つらたつ)は、今川義元に仕えていた。 飯尾致実(いいお-のりざね)…

人気の戦国武将

  1. 淀殿(茶々)が産んだ、子供である豊臣秀頼の父親は誰なのでしょう? 状況的には豊臣秀吉が父親であ…
  2. 5歳の時に疱瘡に掛かり、一命は取り留めるものの右目を失った梵天丸。 米沢にて虎哉和尚や片倉景綱に鍛…
  3. 広島城(ひろしまじょう)は1589年に築城された輪郭式平城で、別名は鯉城(りじょう)、在間城(ざいま…

オリジナル戦国グッズ

限定「頒布」開始しました。無くなり次第終了です。
戦国オリジナルバック

 スポンサーリンク
当サイトでは
Android app on Google Play
↑ アプリ版もあります

戦国グッズ通販

実際に鉄板も使用した本物志向「高級」甲冑型の携帯ストラップ
甲冑型ストラップ

甲冑型ストラップ

戦国武将「Tシャツ」や「スウェット」その他もあり。
戦国武将シャツ

戦国浪漫「戦国グッズ」通販

メールでお知らせ

新規記事追加をメールで受信可能。

ページ上部へ戻る