豊臣秀次 豊臣一族としての役目を果たすも最後は粛清される運命に

豊臣秀次とは

豊臣秀次(とよとみ-ひでつぐ)は、戦国時代の1568年、尾張で生まれた。
父は農民である木下弥助(後の三好吉房)。
母は豊臣秀吉の姉・とも(日秀尼、瑞竜院日秀)。
豊臣秀次は長男であり、通称は孫七郎(まごしちろう)、幼名は治兵衛(じへえ)だった。
木下藤吉郎(羽柴秀吉、豊臣秀吉)が、織田家の家中で台頭してくると、父・木下弥助は縁者として木下姓を与えられ家臣に加わったものと考えられる。

弟に豊臣秀勝豊臣秀保がいる。

ちなみに2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」では俳優の山下真人さんが羽柴秀次を演じられる。

織田信長の浅井攻めの際、羽柴秀吉は横井城主・宮部継潤と対峙したが、1572年10月、羽柴秀吉は調略して宮部継潤は織田家に降伏した。
宮部継潤は羽柴秀吉の与力に加わり、以降、豊臣秀吉の家臣として活躍しているが、この際、豊臣秀次は宮部継潤の養子として送り込まれた。しかし、1573年8月、浅井長政が自害し、浅井家が滅亡すると、羽柴家に戻っている。


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その後は、四国統一を目前にした長宗我部元親に対抗していた、阿波の三好康長に1579年11月、養子として送り込まれ、三好信吉(三好孫七郎信吉)と名乗った。
織田信長から四国安堵の朱印状を授かった土佐・長宗我部元親の正妻は、明智光秀の家臣・斉藤利三の妹で、これに対抗すべく、羽柴秀吉は名門・三好家に養子として送ったと考えられる。

父・木下吉房も三好姓に改姓し、三好吉房と称した。また、父・三好吉房の妹は、三好一族の大島親崇の正室になっている。

養父・三好康長は茶の湯と連歌に造詣が深い文化人、影響を受けた三好信吉(豊臣秀次)は10代の若さで津田宗及らの茶会や里村紹巴主催の連歌会に出席している。


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1582年6月、明智光秀による本能寺の変で織田信長が横死した後は、山崎の戦いが初陣と考えられている。
1583年、柴田勝家との賤ヶ岳の戦いで武功を挙げ、1584年、徳川家康との小牧・長久手の戦いにも参加するなど、羽柴秀吉の縁者として重用された。
なお、小牧・長久手の戦いでは「中入り」のため三河国への別働隊の総指揮を執ったが、逆に徳川家康勢の奇襲を受けて惨敗。
舅・池田恒興森長可らを失い、三好信吉(豊臣秀次)は命からがら敗走した為、羽柴秀吉(豊臣秀吉)から激しく叱責されている。

このとき、多くの木下一族は、豊臣秀次を逃がすために長久手で討死にした。
下記は、木下勘解由塚(木下勘解由利匡)(きのしたかげゆとしさだ)が、自分の馬を三次秀次(豊臣秀次)に差し出して逃れさせ、敵兵を防ぎ討死した場所となる。

木下勘解由塚

ただし、大きな負け戦はこの時だけで、他の合戦では武功も挙げている事が多い事から、決して無能な武将では無かったようだ。

1583年頃に羽柴秀次と改名し、正室として池田恒興の娘・若御前(若政所)を迎えたようだ。(側室はたくさんいるので、下部に参考として掲載)
 
1585年、紀伊雑賀攻めでは羽柴秀長(豊臣秀長)と共に副将をつとめ、千石堀城の戦いで城を落とし、四国攻めでも副将として30000を率いて戦功を挙げた。
その後、近江・蒲生郡の八幡山城主(現在の近江八幡市)43万石となった。(うち、23万石は豊臣秀吉から派遣された附家老ら御年寄り衆分)。

八幡山城

焼け落ちた安土城の城下から商人を移住させ、碁盤目状の街路を作り、武家町と町民が住む区域を分け、職人と商人が住む区域を分けた。
領地経営では善政を布いたと言われ「水争い裁きの像」などが残り逸話が語り継がれている。
家臣・田中吉政などの功績が大きいとも言われているが、悪政を敷いた代官を自ら成敗したり、名代を任せた父・三好吉房が川の堤防建設と維持費の負担から税率を高くし、「頼りない」と言うなど独自の言動・行動も見られ、優れた施策を立案すると、田中吉政らが補佐したようだ。

1586年11月、豊臣姓を下賜されている。

1588年、後陽成天皇の行幸では叔父・豊臣秀長、徳川家康ら武家の公卿と共に天皇の行列に供奉。

九州征伐では前田利家と共に京都で守備したが、1590年の小田原征伐(小田原攻め)にも参加し、山中城の総攻撃では大将となり、徳川家康らと共に半日で陥落させている。

山中城の障子掘

戦後、移封を拒否して改易された織田信雄の旧領である尾張国・伊勢国北部5郡などに100万石の大領を与えられた。
この時、実父・三好吉房も尾張犬山城主となっている。

1591年、奥州に出兵し、葛西大崎一揆及び九戸政実の乱鎮圧においても武功を挙げた。

1591年1月、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長が死去。
1591年8月、豊臣秀吉の嫡男・鶴松が僅か3歳で死去。
後継者を失った豊臣秀吉は、豊臣秀次を11月に養子とし、12月なると、豊臣秀次が関白に就任し、豊臣秀次は聚楽第に入り天下人となった。(実父・三好吉房が領地経営)
しかし、豊臣秀吉は全権を譲ったわけではなく、二元政治となり、その後、唐入りに専念する豊臣秀吉の代わりに内政を司ることが多かった。

1592年、「御家中人数備之次第」に家臣団構成が記されており、御馬廻左備(牧主馬などが属す)などの組織名が記録に残っている。同書には御馬廻右備219人の組頭として大場土佐、御後備188人の組頭として舞兵庫の名が記されている。

関白となった豊臣秀次であったが、やがて不幸な境遇となる。


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1593年、淀殿豊臣秀頼を産むと、老い先短いと感じた豊臣秀吉(57歳)は子を後継者にしたいと考えるようになったようで、関白・豊臣秀次は疎まれるようになった。
豊臣秀吉は前田利家に仲介を頼み、まだ幼い豊臣秀頼と豊臣秀次の娘を早くも婚約させ、日本を5つに分けてその4つを豊臣秀次与え、1つを豊臣秀頼にと言う約束を取り付けるなどしたが、結果的に豊臣秀次を粛清する方向に傾いた。

豊臣秀次事件

1595年1月、小西行長が明(中国)へ派遣した小西如安(内藤如安)から連絡が来ないことから、豊臣秀吉は関白・豊臣秀次を総大将とする12万5000の軍勢を朝鮮半島へ再派兵する計画を発表するも、連絡が届き派遣中止する中、事件は起きた。 

1595年、豊臣秀次は豊臣秀吉に「鹿狩りと称して山へ行き、謀反の計画を立てている、という噂がある」と謀反の疑いをかけられ、7月3日、聚楽第に居た豊臣秀次のもとへ石田三成前田玄以増田長盛の3名の奉行の他、かつての養父・宮部継潤、富田一白(奉行代行)の計5名が訪れ、豊臣秀次に対し高野山へ行くように促した。

関白・豊臣秀次は「謀反の意思は無い」と釈明すると、石田三成らは誓紙を求め、豊臣秀次は7枚もの誓紙を提出した。
しかし、7月5日、石田三成が豊臣秀吉に「豊臣秀次が毛利輝元と通じてる証拠が見つかった」と報告。
「色々な説が出るのは、豊臣秀次が釈明しないからだ。親子なのだから、至急来なさい」と豊臣秀吉は豊臣秀次に伏見城へ来るように促した。

豊臣秀次は謀反の心など無い事を釈明する為、迎えにきた山内一豊堀尾吉晴中村一氏・宮部継潤・前田玄以の5人の使者と共に、7月8日に豊臣秀吉が滞在している伏見城へ赴くが、福島正則らに遮られ、伏見城下の木下吉隆の屋敷で待機した。
このように対面することが出来ないうちに、使者が来て、今度は「高野山で待機するように」と言われ、即日、高野山へと入った。
この時、300人の従者も10人程に減らされたと言う。
そして、高野山では出家して道意と号している。

金剛峯寺の蟠龍庭
 
それから1週間後の7月15日、福島正則・池田秀氏・福原直堯らが3000の手勢を引き連れて高野山を訪れ、豊臣秀次に切腹の命令が下ったことを伝えている。

同日、1595年7月15日、豊臣秀次及び豊臣秀次の小姓らを含めた嫌疑をかけられた面々が切腹。
まず、小姓の山本主殿・山田三十郎・不破万作・玄隆西堂の4人が切腹し、豊臣秀次が介錯。
豊臣秀次は青巌寺・柳の間にて雀部重政の介錯により切腹し、そして雀部重政と東福寺の僧・玄隆西堂も切腹した。
豊臣秀次らの遺体は青巌寺に葬られ、豊臣秀次の首は三条河原へ送られたと言う。享年28。

辞世は、「磯かげの松のあらしや友ちどり いきてなくねのすみにしの浦」。

豊臣秀吉の怒りはこれだけでは収まらず、1595年8月2日には三条河原において、豊臣秀次の家族及び女人ら一族も処刑された。
豊臣秀次の首が据えられた塚の前で、遺児(4男1女)及び側室・侍女ら併せて39名が5時間掛けて処刑されたと言う。
処刑後、その遺体は一箇所に埋葬され、その埋葬地には豊臣秀次の首を収めた石櫃が置かれた。その塚は「畜生塚」と呼ばれるようになった。
また、連座した大名は監禁され、豊臣秀次が政務を行っていた豪華な聚楽第も全て破却された、近江八幡城も破却されたと言う。

なお、死を免れた妻子もあり、豊臣十丸の祖母・北野松梅院、直系の親族である淡輪徹斎(淡輪隆重)の娘・小督の局との娘(生後1ヶ月であったお菊、祖父の弟の子の後藤興義に預けらていた)、後に真田信繁(真田幸村)の側室・隆清院となった娘、その同母姉で後に梅小路家に嫁いだ娘も難を逃れている。

一方で、山形城主・最上義光の娘・駒姫は、側室に上がる為、山形から上京し、最上屋敷で長旅の疲れを癒していた(まだ側室として上がっていなかった)が、11番目に処刑されている。享年15。側室になる前だったと言う事もあり、父・最上義光らの助命嘆願を受けて、豊臣秀吉は「鎌倉で尼にするように」と早馬を三条河原に派遣したが間に合わなかったと言われている。


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豊臣秀次の妻子

側室:菊亭晴季娘・一の台(継室とも言われるが、若御前は存命していたため不明。)
側室:日比野下野守の娘・於和子
  長男:仙千代丸
側室:山口少雲の娘・お辰の方
  次男:百丸
側室:北野松梅院の娘・阿左古の方
  三男:十丸
側室:竹中重定(貞右衛門)の娘・お長の方
  四男:土丸
側室:毫摂寺善助の娘・お亀の方(中納言局)
  娘:露月院誓槿大童女(秀頼の許嫁)
側室:淡輪隆重の娘(淡輪重政の姪)・小督局
  娘:お菊
側室:最上義光の娘・お伊万の方(駒姫)
側室:近江国出身・おきいの方
側室:伊丹兵庫頭の娘・おきくの方
側室:大島新左衛門の娘・お国の方
側室:和泉国丹和出身・おこごの方
側室:最上衆娘・おこちゃの方
側室:鯰江才助の娘・お古保の方
側室:武蔵長門守の娘・おさなの方
側室:元は捨て子・お竹の方
側室:四条隆昌の娘・おつまの方
側室:岡本美濃の娘・お虎の方
側室:坪内三右衛門の娘・おなあの方
側室:斉藤吉兵衛の娘・お牧の方
側室:三条顕実の娘・お宮の方(母は一の台)
側室:堀田二郎左衛門・およめの方

不詳
  甘丸
  水丸
  梅小路家室
  真田信繁の側室・隆清院

秀次事件の主な連座者

木村重茲(助命後自裁)
木村志摩守(賜死)
前野長康(助命後自裁)
前野景定(賜死)
羽田正親(賜死)
服部一忠(賜死)
渡瀬繁詮(賜死)
明石則実(賜死)
一柳可遊(賜死)
粟野秀用(賜死)
白江成定(賜死)
熊谷直澄(賜死)
瀬田正忠(賜死)

三好吉房(改易・流罪)
六角義郷(改易)
木下吉隆(改易・流罪)
里村紹巴(蟄居)
浅野幸長(流罪・のちに復帰)
増田盛次(蟄居・のちに復帰)
前野忠康(浪人)
滝川雄利(叱責)
荒木元清(追放)

実父・三好吉房は讃岐国に流罪となったが、豊臣秀吉の死後に赦免され京都に戻り、1600年、本圀寺に一音院を建立し、豊臣秀次・豊臣秀勝・豊臣秀保の菩提を弔った。

豊臣秀次自刃の間

高野山の金剛峯寺には豊臣秀次自刃の間が再現されています。
明治になって青巖寺と興山寺が合併し「金剛峯寺」となりましたので、昔の青巖寺は現在の金剛峯寺と言えます。

豊臣秀次自刃の間

有料拝観の折り、社務所でお伺いしましたら、模写防止の為「ふすま絵」は撮影禁止ですが、その他は自由にお撮り下さいとの事でしたので、豊臣秀次自刃の間を撮影させて頂きました。

下記の地図ポイント地点は、高野山・金剛峯寺の無料駐車場です。
縮尺を変えてご覧願います。

豊臣秀次の正室・一の台

豊臣秀次の正室は、菊亭晴季の娘(1562年生まれ)であり「一の台」と呼ばれています。
一の台と言うのは一番の御台所と言う意味だそうなので、正室と言う事です。


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ただし、この一の台は、最初、三条顕実(三条実顕とは別人)に嫁いだとされており、おみや(お美屋御前)を設けたようですが、すぐに三条顕実が死去しため、未亡人になったとされます。
その後、豊臣秀次の正室となった訳ですが、豊臣秀次の正室、最初、池田恒興の娘・若御前を迎えています。
よって、豊臣秀次も一の台も、再婚同士と言う事になります。
ただし、一の台が嫁いだ際に、まだ池田恒興の娘・若御前は存命であったと言う説もあることから、豊臣秀次の正室は2人いたと唱えている方もおられるようです。
1595年、秀次事件にて、一の台は8月2日に斬首されました。享年34。
戒名は徳法院殿誓威大姉。

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コメント

  • コメント ( 3 )

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  1. 出羽守

    ×静粛
    ○粛清

  2. 出羽守さま、ご指摘助かります。
    全然、意味が違っていますよね。
    ありがとうございました。(^-^)

  3. さらーし

    高野山切腹の折、智の意をくみ清正の家臣に守られ信州伊那に逃れた若いお腹様の系統が、江戸時代の終わりに東京に移住、その子孫が存在します。何よりその家の400年以上にわたる過去帳が物語っています。