井伊直政をわかりやすく解説【どうする家康】井伊の赤鬼の異名を誇る徳川四天王

井伊直政とは

井伊直政(いい-なおまさ)は、1561年2月19日、今川氏真の家臣・井伊直親の嫡男として、遠江国井伊谷(現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)の祝田で誕生した。幼名は井伊虎松(虎松)。
母は奥山親朝の娘(名前不詳)。父・井伊直親が信濃へ落ち延びていた際に正室を迎えていたともされる。

2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」では俳優の板垣李光人(いたがき-りひと)さんが井伊直政を演じられる。

井伊家は先祖代々「井伊谷」の国人領主であり、井伊直政(Naomasa-Ii)の祖父・井伊直盛は、1560年、今川義元と共に桶狭間の戦いで討死。
その後、父の井伊直親が家督を継ぐ機会を得たものの、家臣・小野道好の讒言により、井伊直政が生まれた翌年に、松平元康(後の徳川家康)との内通を今川氏真に疑われ、1562年12月14日に今川家の重臣・朝比奈泰朝によって横死した。(享年28)

井伊直政出生の地碑

この当時、井伊直政(虎松)は、僅か2歳だった為、1565年、父・井伊直親の従妹に当たる祐圓尼(井伊直盛の娘、次郎法師)が、女性でありながら井伊直虎と名乗り、井伊家の家督を一時的に継ぐも衰退する。
その後、井伊直政(虎松)は、親戚筋の新野親矩(にいの-ちかのり、新野左馬介、新野左馬助)の保護を受けて、徳川家康の世話になっていた養母・井伊直虎に育てられたが、1568年の引馬城攻めで新野左馬介(新野親矩)が討死する。
井伊谷城小野政次(小野道好)に奪われて所領も失うと、新野左馬介(新野親矩)の妻(奥山因幡守の妹)の助けもあり、浄土寺の僧侶・珠源(母の叔父)に預けて出家。
珠源はさらに、龍潭寺から三河・鳳来寺に井伊直政(虎松)を移したが、それでも身の危険が生じた。
その為、生母・奥山親朝の娘(奥山朝利の娘とも?)は、今川家の家臣・松下清景と再婚し、井伊直政(虎松)は松下家の養子となり、身の安全の代わりに井伊家の家督相続権を失った。

井伊直親と井伊直政

1575年2月に、浜松城から鷹狩りに出た徳川家康は「一目でその大器を感じた」と姿貌いやしからぬ虎松に目をとめ、その生い立ちを聞いて家臣に加える。
そして、井伊家の井伊谷復活を許され、井伊虎松の名を徳川家康の幼名竹千代にちなんで井伊万千代と改めた。
この時、小野一族の子・小野朝之も共に小姓になったようで、小野朝之は万福の名を与えられている。

井伊直政の初陣

万千代(井伊直政)の初陣は1576年2月7日に武田勝頼と戦った芝原の戦いとされている。
「突き掛かり戦法」と言う、先鋒としてとにかくガムシャらに突き進む作戦を取り活躍した。
井伊万千代(井伊直政)は300石にて徳川家康の小姓となっていたが、井伊家を代行していた養母・井伊直虎が1582年に亡くなると、井伊直政が正式に井伊家を継いだ。


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また、夜に徳川家康の寝所の近くまで忍びこんだ、武田勝頼が送ったとされる忍者(刺客)・近藤武介を討ち取り、他1人に傷を負わると言う功を上げ、知行を一気に3000石とした。

20歳の井伊万千代は、武田勢が籠城する高天神城(静岡県掛川市)攻略で、乱波(特殊工作員)を放って水の手を切ると言う功績も挙げている。

1582年、22歳で元服すると井伊直政と改名し、徳川家康の養女・花 (松平康親の娘、後の唐梅院)を正室に迎えた。(1584年に結婚した説もある)
若い頃から美男子と言われ、豊臣家に人質として出された時は北政所(おね、ねね)や侍女達からかなりの人気だったと言い「家康の寵童」であった為、元服が遅かったとされるが、この若さで、旗本の中でも先手役を任され、本多忠勝榊原康政らと共に徳川家康を大きく支えて行く事になる。


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1582年、明智光秀の謀反により織田信長が討たれる本能寺の変では、堺から伊賀を越えて浜松城に戻る徳川家康に随時従い、無事に三河国への帰還を果たした。
さらに天正壬午の乱では、わずか22歳でありながら若神子城に陣を張っていた北条氏直との講和交渉に使者として出向くなど、早くも外交能力を発揮。
徳川家康が武田氏の旧領である信濃国・甲斐国も支配すると、井伊谷40000石に加増。武田から徳川家に転身した武田家の旧家臣800名のうち140名を井伊家の与力に加え、徳川家康の命により山県昌景の軍装(または小幡赤武者隊)を採用し「井伊の赤備え」と呼ばれる精鋭部隊に発展した。
そして、この頃から「兵部少輔(兵部大輔)」を名乗った。

赤備えの軍律は厳しく、井伊直政も家臣には非常に厳しくて少しの失敗も許さなかったと言い、近藤秀用のように出奔する家臣もあった。
合戦では自ら先陣に立つほど戦いを好んだ為、重武装だったにもかかわらず戦の度に傷を負っていったとされる。

小牧・長久手の戦いでの活躍

1584年、小牧・長久手の戦いの直前、豊臣秀吉は井伊直政を懐柔しようと、2月27日に修理大夫へ任官させたが、井伊直政の徳川家康への忠義は揺らぐことなく、鬼武蔵として恐れられた森長可と互角に戦う武功を挙げ「赤鬼」の異名を取るなど、一躍天下に知られるようになった。
井伊直政は小柄で顔立ちも少年のようだったとされるが、赤備えの兜には鬼の角のような前立物をあしらい、長槍で敵を蹴散らして行く勇猛果敢な姿は「井伊の赤鬼」と称され、大いに恐れられた。

1585年には石川数正が豊臣秀吉に引き抜かれ、徳川軍の軍法が豊臣家に筒抜けになった為、徳川家康は軍制を武田信玄の甲州流に変更。
これによって旧武田軍を従えていた井伊直政は、新編成の中心となり、別働隊として独自の判断での作戦を許され、徳川家でも最多の10000を率いる大将となっていることが確認できる。(譜代重臣の酒井忠次、本多忠勝、榊原康政らはだいたい5000)
そして、上田城真田昌幸真田信之真田幸村攻略失敗部隊の撤退指揮の為、上田にも派遣され、のち井伊谷60000石と加増された。


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1586年10月に、徳川家康が上洛し、豊臣秀吉に臣従した際、豊臣秀吉は母・大政所を徳川家に人質として差し出したが、すぐに送り返すこととなり、井伊直政が大政所を警護して上洛した。
その際、井伊直政の武力・政治的手腕を兼ねてから高く評価していた豊臣秀吉は、11月23日に従五位下に叙位させ、豊臣姓を下賜している。1588年4月、聚楽第への行幸の際には侍従に任官させた。
毛利家の小早川隆景も「井伊直政は小身なれども、天下の政道相成るべき器量あり」と高く評価している。

1590年に嫡男・井伊直継(井伊直勝)が正室との間に生まれたが、ほぼ同じくして次男・井伊直孝も生まれており、伊具氏の娘を側室に迎えた。
のち幕府にて大老とも言える重鎮となった井伊直孝の母・伊具氏の娘は、正室・唐梅院(徳川家康の養女)の侍女だったという説がある。

1590年の小田原征伐(小田原攻め)では、唯一夜襲をかけて小田原城内の篠曲輪まで攻め込んだ。
小田原城内へ攻め込めたのはこの井伊直政だけであり、その名を天下に轟かせている。
家臣では、井平弥三郎らが討死している。

奥州仕置の九戸政実の乱でも先鋒を務めた。徳川家康が関東移封となり江戸城に入ると、井伊直政は上野国の箕輪城主(群馬県高崎市)として、徳川家の中で最高となる12万石になった。

箕輪城

1598年には、徳川家康の命によって箕輪城から南の和田城を大改築して「高崎城」と改称し、新たな居城とし、箕輪城下の民衆も高崎に移っている。
また、高崎では荒廃していた安国寺を復興させ、正室・花の両親を供養した。
しかし、多忙でほとんど高崎に滞在できる事はなく、この頃、井伊直政は名護屋城や大坂城などで、黒田長政など反・石田三成派の諸将と交渉している文書などが多数残されている。


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特に黒田官兵衛(黒田孝高)・黒田長政父子を、徳川勢に組み入れた実績は評価できる。
豊臣秀吉の死後、徳川家康と石田三成の対立が更に強くなると、僅かな兵のみで上京している徳川家康の身辺に、度々危険が迫る事があったが、その度に井伊直政の機転で難を逃れている。

関ケ原の戦いでの負傷

1600年の関ヶ原の戦いでは、3600を率いて徳川家康に随行。本多忠勝と共に東軍の軍監に任命され、東軍指揮の中心的役割を担った。
そして、全国の諸大名を東軍に味方させる外交工作も行い、合戦でも初陣となる徳川家康の四男・松平忠吉(井伊直政の娘婿)を補佐して、松平忠吉と共に先鋒予定だった福島正則を差し置いて、関ヶ原での合戦開始となる先鋒を務めた。
下記は、関ヶ原ウォーランドの井伊直政。

関ヶ原ウォーランドの井伊直政

井伊直政と松平忠吉は、西軍の宇喜多秀家小西行長と戦った説と、敵中突破退却を行った島津義弘と戦ったとする説があるが、最近の研究では島津勢と戦った説が有力で、島津義弘の甥・島津豊久を討ち取ったとされる。
退却する島津義弘を追撃した際に、島津勢の柏木源藤の狙撃を受け、右肘関節(記述によっては右肩または左腕)を負傷して落馬し、大怪我を負った。

しかし、怪我を押して、敗将となった石田三成を処刑直前まで手厚く保護したのちも、戦後処理と江戸幕府の基礎固めに尽力し、西軍の総大将を務めた毛利輝元との交渉を務めた。

また、長宗我部元親とは入魂の仲であったとされ、息子の長宗我部盛親からの謝罪も仲介し、その後、長宗我部盛親が家臣の讒言から兄を殺害し所領没収となった際には、家臣を土佐に派遣して、山内一豊の土佐入国を援助した。

その他、徳川家と島津家の和平交渉も進めるなど、抜群の政治・外交手腕を発揮。
 
また、東軍に味方した真田信之の要請もあり、真田昌幸と次男・真田幸村の助命にも進退を懸けてまで尽力したとされ、徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、徳川家康の天下取りを全力で支えた功臣であった。

関ヶ原の戦いでの論功行賞では、石田三成の旧領である近江・佐和山城(滋賀県彦根市)18万石を与えられ、従四位下に任官された。
※従四位下になったのは1588年4月説がある。
高崎・安国寺は分離させ、彦根に宋安寺を建立して、引き続き正室・花の両親を供養している。

この頃、徳川家康は井伊直政・大久保忠隣本多正信・榊原康政・本多忠勝・平岩親吉ら6人の重臣を召集し、自分の後継には誰にするか?尋ねたが、井伊直政は自分の娘婿である松平忠吉を推した。
しかし、結果はご存知の通り、大久保忠隣が推した徳川秀忠が後継ぎとなっている。

井伊直政は、関ヶ原で受けた鉄砲傷が癒えないまま、破傷風で1602年2月1日に死去。享年42。


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この時は井伊直政の主な家臣は、木俣守勝、川手良則、近藤秀用、近藤康用、西郷正友、菅沼忠久、鈴木重好で、のちの彦根藩を支えていく。

井伊直政が死去は、石田三成の祟りではないかとの噂がたち、徳川家康の命によって、佐和山城を破却した他、石田三成に関する全てを破棄した。
その後、彦根城の築城が開始されると佐和山藩18万石は廃藩となり、大坂の役の後に上野佐野・武蔵世田谷など5万石ずつ加増されて、彦根藩35万石となった。

家督は長男・井伊直勝が継いだが、病弱であったため、徳川家康の命により、井伊直勝は隠居し、井伊直勝の弟・井伊直孝が家督を継いだ。その後も、井伊直孝の子孫が彦根藩主を継承。井伊直勝の子孫は、安中藩主(30000石)・西尾藩主・掛川藩主・与板藩主として存続した。

35万石の井伊直政の子孫は、譜代大名の筆頭として徳川幕政に大きく参与し、江戸時代の264年間を通じて井伊直弼など5名の大老を輩出した。
しかし、井伊直弼が1858年に安政の大獄を起こし、その後、1860年の桜田門外の変で暗殺された後、10万石の減封を受け、徳川家からは冷遇されたが、井伊氏が代々居城した近江・彦根城は国宝に指定され、数少ない戦国時代の名残をとどめる城となっている。


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コメント

  • コメント ( 1 )

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  1. いくさびと

    井伊直政には、生い立ちも多分に関係しているのでしょうが、どうにも感情任せの猪突猛進型なイメージがぬぐえません。もちろん、それが魅力でもあるのですが…私は、 彼のその性分が顕著に出たのが関ヶ原での抜け駆け一番槍だとみています。あの戦いは、少なくとも形式的には「豊臣家臣VS豊臣家臣」であったはずで、家康はあくまで名代でした。直政が一番槍にこだわらなければ、緒戦は福島や黒田・細川などが宇喜多隊とぶつかっていたと思います。これが家康子飼いである直政が先走ったために、「徳川が関ヶ原に勝った」ということになりました。そうでなければ、一部でいわれる「家康の天下は豊臣から簒奪したもの」という評価もまた少し違っていたのかもしれません。