天正壬午の乱の全容~神流川の戦いから北条・徳川の勢力争い


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 天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)は、1582年6月、織田信長の死後、空白地帯となった甲斐・信濃・上野にて、勢力を争った広範囲に渡る、いくつもの戦いの総称です。
 その範囲は現在の長野県・山梨県を中心にして、群馬県・静岡県と4県も巻き込んだ非常に広い範囲で戦闘があっただけでなく、関与した大名も徳川家康北条氏直上杉景勝木曾義昌真田昌幸などと多く複雑なのです。
 そして、それぞれの思惑も異なっていたため、流れが非常にわかりにくく、小生もすべて把握するのに何年も掛かりました。
 単に武将だけで追いかけますと、その武将が関与した戦しかわかりませんので、信濃・甲斐を巡る争いがどのような混戦状態だったのか、つかみにくいのが天正壬午の乱です。
 しかし、お陰様でそれらの武将を調べてきた結果、ここ最近ようやく全容が見えてきたような気がいたしますので、今回「天正壬午の乱の全容」として、時系列(年表式)風にまとめてみることにしました。
 もっと短文の予定だったのですが、思いがけず、かなりの長文にもなり、お読み頂くだけでも大変かと存じますが、もしよろしければご覧頂けますと幸いです。
 山梨・長野・群馬の地理に詳しくない方は、地図を見ながらだとわかりやすいと思います。
 ※画像はクリックすると拡大します。

 

 ※ここからデスマス調変更します。

武田家滅亡と本能寺の変

 1582年2月、織田信長は甲斐攻めの軍を発し、3月に織田信忠がたちまち信濃・甲斐を占拠し、天目山の戦いにて武田勝頼を自害に追い込んだ。
 甲斐、信濃、駿河、上野は織田家の領地となり、駿河は徳川家康のものになる。

 織田信長はその武田旧領を下記のように分配した。

 武田勝頼を裏切った穴山信君には巨摩2郡の本領安堵
 河尻秀隆は甲斐一国(穴山替地として諏訪郡を加増)
 上野一国と小県・佐久は滝川一益となり、真田昌幸らが与力に加わる
 森長可には海津城主として川中島の4郡
 木曾義昌は木曽谷の本領安堵に加え筑摩郡・安曇郡
 毛利長秀高遠城主として伊那郡
 徳川家康は駿河一国

 なお、織田家に同調して伊豆・駿河を攻めていた北条氏直は、織田家や徳川家の攻撃計画も知らされず、一切所領も得られなかったため、不満が残る結果となっている。

 ともあれ、織田家にとって長年の懸念材料であった強敵・武田家を滅ぼす事ができ、天下が見えてきた。

 しかし、武田滅亡後から3ヶ月後、1582年6月2日に明智光秀による本能寺の変で、織田信長が横死。
 堺にいた徳川家康は、酒井忠次石川数正本多忠勝井伊直政榊原康政ら家臣らに守られながら伊賀越えを断行し、わずか2日後の6月4日に三河に到着している。
 なお、徳川家康と一緒に堺にいた穴山信君(穴山梅雪)は、堺から京都に向かう途中にて、木津川河畔にて落ち武者狩りの百姓勢に襲撃され、織田信長と同じ6月2日のうちに命を落とした。

 そして、甲斐・信濃や関東にも織田信長の死が伝わると、まだ不安定であった武田旧領の領有権を巡って、天正壬午の乱が勃発するに至る。

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神流川の戦い

 上野の滝川一益の配下には、真田昌幸(上田城主、旧沼田城主)、藤田信吉(沼須城主)、内藤昌月(箕輪城主)、和田信業(和田城主)、倉賀野秀景(倉賀野城主)、小幡信貞(小幡城主)、安中久繁(安中城主)、高山定重(高山城主)、木部貞朝(木部城主)、白倉宗任(白倉城主)、北条高広(旧厩橋城主)、長尾憲景(白井城主)、由良国繁(金山城主)、那波顕宗(那波城主)、宇都宮国綱(宇都宮城主)、長尾顕長(足利城主)、皆川広照(長沼城主)、成田氏長(忍城主)、上田朝直(松山城主)、深谷氏憲(深谷城主)、太田資正(旧岩付城主)、梶原政景(太田資正の次男)らがついていたが、これらの諸将は元々北条家や武田家に臣従していた武将であり、まだ信頼の絆も浅かった。
 そして、上野の統治開始してまだ3ヶ月と言う時に、織田信長が横死し、6月9日に滝川一益にも一報が届いた。
 滝川一益は隠しても意味が無いとし、諸将を翌日に呼び出すと、正直に伝えている。
 しかし、6月12日に沼須城主・藤田信吉5000が裏切って、滝川益重4000が守る沼田城を攻めた。
 箕輪城から前橋城(厩橋城)に本拠を移したばかりの滝川一益であったが、援軍として20000を出すと、6月13日、藤田信吉は上杉景勝を頼って越後に逃亡している。

 一方、織田信長の死は小田原城にも、もたらされており、6月11日に北条氏照の家老・狩野一庵が、念のため滝川一益に報告すると、北条家は引き続き有効関係を継続すると伝達。
 要するに、この時点ではまだ、北条家と滝川一益は同盟関係にあったが、北条家の実権を握っていた北条氏直の父・北条氏政は6月12日に出陣の触れを出し、軍勢を発して上野への進軍を開始した。
 北条家に取って上野は、長年、取ったり取られたりと攻防を繰り広げていた北関東の覇権を得るために、またとないチャンスとなったのだ。

 滝川一益は、厩橋城に滝川忠征、松井田城に津田秀政と稲田九蔵の兵1500騎、小諸城には道家正栄を残すと、18000の軍勢を率いて上洛し、明智光秀を討とうと考えたようで、その進路としては、武蔵から駿河に入るルートを考えたようだ。
 あえて碓氷峠に向かわなかったのは、まだ織田家と北条家の友好関係が生きていると思ったからだろう。
 しかし、藤田信吉を討伐したこともあり、その出立は、他の織田家臣よりも完全に出遅れた。
 時は既に、6月13日に豊臣秀吉天王山の戦いにて明智光秀を討った頃の話だ。
 本能寺の変の際にも、関東に伝わるまで7日間掛かっているため、豊臣秀吉が成敗したと言う報せも、まだ届いていなかったものと推測できる。

 そして、倉賀野辺りまで進軍したところで、北条勢が向かってきたとの知らせが入ったものと考えるが、1582年6月18日、滝川一益は神流川を越えて金窪(金久保)まで進むと、北条側の金窪城と川井城を攻めて陥落させた。
 しかし、そこに北条氏直・北条氏政・北条氏照ら北条勢50000の大軍が到着し、中山道(国道17号)一帯にて戦闘状態となる。

 初日こそ、滝川一益が有利に戦ったが、翌日6月19日には北条勢の大軍が揃い、逆に追い立てられて敗走。
 その日のうちに、倉賀野城を経て厩橋城まで退却した。

滝川一益の伊勢逃亡

 本来であれば援軍が期待できた甲斐・信濃でも、武田遺臣による国人一揆が起きており、同僚の森長可・毛利長秀は既に美濃へ帰還。
 6月4日に岡崎城に帰還した徳川家康は、河尻秀隆に対して甲斐から退去するようにと、事実上の降伏勧告を出し甲斐を狙った。
 しかし、河尻秀隆は甲斐に踏みとどまっていたが、旧武田の国人一揆に敗北し、躑躅ケ崎館近くの岩窪町に戻ったところを、武田遺臣・三井弥一郎の手で、6月18日殺害されてしまう。

 また、徳川家康は本隊を率いて明智光秀を討つべく上洛途中の6月15日に、名古屋の鳴海にて山崎の戦いの報を受けた。
 そして、真偽を良く確認した後、6月21日になって軍勢を浜松城に方向転換させたが、その間、武田旧臣の依田信蕃に命じて信濃に向かわせると、6月20日には依田信蕃が小諸城に入った。

 滝川一益は伊勢・長島城に撤退することを決め、6月20日夜に、箕輪城にて別れの酒宴を開くと、滝川一益は用心のため上野国衆の人質を伴って西へ進み、上野衆は津田秀政の守る松井田城まで送迎している。
 恐らくはこの頃には明智光秀が討たれた報も届いていたと推測する。
 そして、滝川一益は碓氷峠で人質の一部を解放すると、津田秀政ら2000の兵にて6月21日に信濃・小諸城に到着し、残りの人質もほとんど解放した。
 なお、この時、滝川一益は、小諸城主・道家正栄に対して、城を依田信蕃に引き渡すよう命じたとされる。
 そして、依田康国や真田昌幸の老母など、最後の人質を木曽義昌に引き渡すことにして、残りの逃走路の安全を図り、6月27日に小諸城を出発すると翌28日に滝川勢は下諏訪に到着。
 木曽義昌の通行認可を得て、木曽谷を通過し美濃に入って清洲城に到着した。
 しかし、既に織田家の後継者を決める清洲会議は6月27日に終わっており、三法師(織田秀信)に拝礼すると7月1日に伊勢長島に帰還。
 このように、上野を捨てて撤退し、清洲会議にも出席できなかった、滝川一益の地位は急落した。

 → 滝川一益の詳細はこちら

小諸城の戦い

 滝川一益が6月21日に上野から去ると、真田昌幸はすぐに叔父・矢沢頼綱を派遣して、同日中に沼田城を奪還。

 嫡男・真田信幸(真田信之)には本拠地・岩櫃城に向かわせて守備を固め、真田家は6月24日に長沼城へ入った上杉景勝に臣従した。
 これに対し、北条氏邦が小県の中山城と沼田城をただちに攻撃して奪っている。

 箕輪城主・内藤昌月(内藤昌秀(内藤昌豊)の養子)は、信濃へ侵攻する北条氏直に降伏し、父・保科正俊、兄・保科正直と共に、先遣の北条勢として碓氷峠を越えて信濃に入った。

 北条家は、6月26日、信濃佐久郡の豪族を臣従させ、更に先方軍を6月28日に送ると、内藤昌月らは高遠城を奪還。

 かなり攻め込まれた岩櫃城の真田昌幸も、7月9日に北条家に対して臣従の意を示し、北条氏直らはさっそく真田昌幸を先方に据えて、北条主力43000と共に碓氷峠を越えて佐久に侵攻した。

 そして7月12日、北条勢の本隊は小諸城の徳川勢・依田信蕃を攻撃。
 依田信蕃は城を捨てて春日城(三沢小屋)まで退却し、北条勢は小諸城主に大道寺政繁を配置し佐久を掌握した。
 以後、依田信蕃は春日城を拠点に北条勢の補給部隊を襲うゲリラ戦を展開している。

 また、北条家は小山田信繁の旧領である甲斐の郡内(都留郡)を、安房の里見義頼の援軍も借りて、徳川勢よりうまく先に占拠。
 そして、次に甲斐を伺ったが、甲府へは先に徳川勢に越されることとなった。

 徳川家康は、信濃・甲斐の旧武田家臣掌握を進めた一方、酒井忠次・奥平信昌に南信濃を占拠させ、更に徳川本隊を率いて7月9日に甲府に入った。
 そして、八代・巨摩・山梨の甲斐3郡を掌握したが、佐久は前述の通り北条家の占拠を許している。

木曽義昌と上杉景勝の動向

 木曽義昌は武田滅亡後に新たに所領となった深志城(松本城)におり、長野方面への進出を狙った。
 しかし、海津城(松代城)から一揆を駆逐して逃亡してきた森長可に、本拠である木曽福島城の城門を破城槌で突破されて、岩松丸(後の木曾義利)が人質となってしまい、行動が取れなくなった。
 一方、越後の上杉景勝は、柴田勝家相手に苦戦していたところを、本能寺の変となり、柴田勝家が撤退したため、運よく助かっていた。
 そして、戦場から逃亡した森長可を追う形で信濃に入ると、飯山城を経て6月24日に長沼城に入り、森長可がいなくなったあとの海津城を占拠している。

 人質を取られた木曽義昌は、やむなく森長可や滝川一益の逃走を手助けすることとなり、その隙を突かれる事となる。
 上杉勢200騎の後援を受けた、小笠原一族である小笠原洞雪斎が蜂起し、7月初めに深志城を奪われてしまった。

高島城の戦い

 一方、諏訪の諏訪頼忠は、河尻秀隆の郡代・弓削重蔵を破り、諏訪高島城(旧城・茶臼山城)に入った。
 しかし、甲府から進軍してきた酒井忠次ら3000により高島城が攻撃・包囲され、木曽義昌と共に北条家の傘下に加わることで抵抗を続けた。
 高島城は7月22日から8月6日まで、酒井勢に包囲されている。

 その間、北条家は川中島まで攻め入り、北信を掌握した上杉勢と対峙した。
 しかし、上杉勢と徳川勢の挟み撃ちを恐れた北条氏直と、新発田重家に不安が残る上杉景勝は思惑が一致。
 上杉家は信濃北部4郡の所領することと、川中島以南へ出兵しない事で、上杉景勝と北条氏直は停戦に合意した。
 そして、北条勢は甲斐へ侵攻している徳川家康を駆逐する為、佐久を経由して韮崎へ転進開始する。

若神子の陣

 北条勢転進の一報を受けた徳川勢は、高島城を包囲していた酒井忠次が8月1日に撤退開始して、新府城に籠る。

 

 甲府にいた徳川家康も、鳥居元忠2000を甲府の守備に残すと、8月10日、8000を引き連れて新府城に本陣を移し酒井忠次に合流。

 

 小海を抜けてきた北条氏直は43000で須玉の若神子城に陣を構え、北条家と徳川家は韮崎で80日間も対峙することになる。
 北条家にとってみれば、ここで徳川家康の首を取れば、信濃・甲斐だけでなく、駿河・遠江と言った徳川領も獲得できる大チャンスであったため、完全に徳川家を滅ぼす事を考えたようで、新府城を強攻せずに、3方から包囲する作戦に出た。

 まず、郡内にいた北条氏忠・北条氏勝ら10000を甲斐への入口となる御坂峠(御坂城)へ進出させ、秩父からも鉢形城主・北条氏邦に雁坂峠を越えさせる姿勢を取らせた。
 そのため、徳川家康は鳥居元忠に命じて、甲斐小山城の改修をさせている。
 また、高遠城に入っていた内藤昌月も8月に、北条氏直を支援する為、甲斐に布陣しており、諏訪の諏訪頼忠も含めると、徳川家康は4方から包囲されるような危機となり、戦力的にも5万対1万と劣勢で、絶体絶命の窮地に陥った。
 そして、これまでのように、織田勢の援軍も望めず、徳川家康は新府城からヘタに動く事ができない状態でもあった。

黒駒の戦い

 北条勢は、新府城に籠る徳川勢の背後を突くため、御坂峠(御坂城)の北条氏忠・北条氏勝ら10000を甲斐へと峠を下らせる。
 これに対し、甲府を守備していた鳥居元忠、三宅康貞、水野勝成ら2000(騎馬1300、雑兵700)が直ちに対応すると、1582年8月12日、黒駒付近(笛吹市御坂町上黒駒・下黒駒)で戦闘になった。

 

 この時、鳥居元忠は戦力的に不利であったが、北条勢約300を討ち取ると言う戦果を挙げ、北条氏邦らを郡内に追い返す事に成功すると言う戦功をあげた。
 徳川家康が旧武田家臣を手厚く受け入れていたことからか、上黒駒の在地衆が鳥居元忠勢に加勢したとの伝承もある。
 そして、討ち取った首を若神子城の北条勢から見える位置に並べ、北条勢の士気低下を図ったともされている。
 その結果、どうも、8月17日に若神子城の北条勢は動いて、新府城の徳川勢と、どこかでちょっと戦ったようで、8月20日付の感状が何通も発給されている。 

 そして、8月22日には木曽義昌が徳川勢に寝返り、さらに9月に入ると真田信尹らの誘いにより真田昌幸も依田信蕃に加勢する形で、北条家から離反し徳川勢に味方した。
 また、高遠城の保科正直らも徳川に転じ、高遠城に残っていた内藤家臣・十郎左衛門の兵500が、城の外に追い出されている。

沼田の攻防

 徳川勢についた真田昌幸は、北条家の沼田城を急襲して再奪取した。

 

 しかし、北条勢にとって上野は最優先事項であり、武蔵に残していた軍勢を派遣すると、真田勢の諸砦を次々に落とした。
 真田昌幸も負けておらず、沼田城代・矢沢頼綱の活躍や、真田昌幸の嫡男・真田信幸(真田信之)が手勢800騎を率いて、北条の富永主膳5000が守備する、吾妻の手子丸城を僅か一日で奪還するなど、激しく抵抗し、北条勢を撃退している。
 なお、この北条勢の吾妻侵攻の時期は明確にわかっていないが、恐らくは9月頃の話であろう。 

三島の戦い

 徳川家康は、若神子城から動かない北条家の本城・小田原城を揺さぶる目的で、伊豆方面にも駿河に残っていた部隊を出動させ、伊豆でも何度が小競り合いとなった。
 特に、1582年9月25日には、伊豆の三島にて合戦となり、沼津の三枚橋城主・松平康親と、韮山城主・北条氏規が争い、徳川勢の小笠原安次が討死している。

 そして、真田昌幸や依田信蕃らは、ゲリラ的に北条家の補給線を脅かし、徳川家康はこれに曽根昌世らも参加させて強化したため、韮崎で対峙していた北条氏直の大軍も補給が滞るようになる。

北条家と徳川家の同盟

 1582年10月に入ると、真田昌幸が禰津某を討ち取ったとあり、依田信蕃も小諸城を襲って大道寺政繁を駆逐するなどした。
 そのため、以前、若神子の北条家は大軍であったが、日がたてばたつほど徐々に追い込まれて行った。

 また、松本に復帰していた小笠原洞雪斎による求心力は低く、徳川家康のもとで世話を受けている小笠原貞慶が、徳川家や小笠原旧臣の支援を得て深志城を奪還すると、小笠原洞雪斎は越後に逃れ、信濃の国人で北条家に味方する者は諏訪の諏訪頼忠くらいになっていた。

 北条氏直は、戦局打開の為、上野や佐久にわずかばかりの軍勢を差し向けるも好転せず、関東では佐竹義重が行動を活発化させてきたため、講和を決意。
 織田信雄に仲介を依頼すると、1582年10月29日になって、北条と徳川は停戦に合意し、同盟関係となる事になった。

 その結果、甲斐・信濃は徳川家康のものとなり、上野は北条氏直で確定する。
 そして、同盟の証しとして、徳川家康の娘・督姫が、北条氏直に嫁ぐ事となった。

 このようにして、本能寺の変から約5ヶ月続いた「天正壬午の乱」はいったん終息する。

 なお、北条についていた諏訪高島城の諏訪頼忠は、12月に酒井忠次、小笠原信嶺ら信濃平定軍に敗れて徳川家に臣従し、1583年3月に諏訪を所領として安堵されている。 

 以上、年月日に関しては、把握できたものはすべて記載してみました。
 しかし、不明な部分は年月日ありませんので、もしご存知の方などおられましたら、コメント欄より教えて頂けますと幸いです。
 皆様のご協力も賜りながら、補完して参りたいと存じております。

 また、実際には、これだけで信濃が安定した訳ではなく、1583年、1584年も戦があり、そして、1585年の第一次上田城の戦いに至り真田幸村の名も見受けられるようになります。
 その辺りも今度「続編」を発表して参りたいと存じております。
 →上田城の戦いはこちらに追加いたしました

 お忙しい中、最後までご高覧賜りまして、誠にありがとうございました。

 (参考) 戦国合戦史事典

新府城とは~武田家の集大成と言える大規模城郭
若神子城の烽火台
沼田城の訪問記・写真集はこちら
神流川の戦いの現場を往く~美学にこだわった滝川一益の撤退戦
井伊直政~井伊の赤鬼の異名を誇る徳川四天王
真田昌幸~戦国時代を巧みに生き抜き真田家を守った名将
木曽義昌と真理姫の不幸~武田を裏切った木曽家のその後
滝川一益~織田四天王の名将も本能寺の変で・・
北条氏政【詳細版】~小田原城主・関東覇者への道のり
上杉景勝(詳細版)~豪毅果断・潔白謹厳な武将
依田信蕃と田中城(駿河)~武田と徳川の攻防

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コメント

    • ぱんちょ
    • 2016年 3月 18日

    途中年号が1582年→1862年になっちゃってます

    • 高田哲也
    • 2016年 3月 18日

    ぱんちょさま、ご指摘を頂きまして、深く御礼申し上げます。
    4箇所も違っていたのが確認できまして、原因が不明なのですが、修正させて頂きました。ありがとうございました。

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