源頼朝とは
源頼朝(みなもと-よりとも)は、源氏の頭領である、源義朝の3男として、平安時代末期の1147年4月8日に尾張の熱田神宮西側にあった神宮大宮司の藤原季範別邸(現在の誓願寺)にて生まれた。
母は正室の由良御前(藤原季範の娘)。
父・源義朝は、1156年の保元の乱にて、平清盛らと共に後白河天皇に従い勝利した。
源頼朝(佐殿)は3男ではあったが、2人兄と違い、正室の子であったことから、後継者と目されていたようだ。
なお、北条政子は1157年に誕生している。
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1159年の平治の乱にて、後白河院政派に味方した父・源義朝と源頼朝は、二条天皇親政派の平清盛に敗れ、源義朝は逃亡途中の尾張で長田忠致に謀殺されてしまった。
また、長兄の源義平や、次兄・源朝長も命を落とし、はぐれて逃亡していた源頼朝は捕まってしまう。
しかし、平ら清盛の継母・池禅尼の嘆願などにより命だけは救われて、伊豆に流刑となった。
源頼朝のことを佐殿と呼ぶ理由・意味としては、下記の通り。
平治の乱の際に約15日間だけ源頼朝は右兵衛権佐に任じられており、解任されて「前」右兵衛権佐と言うことになった。
そのため、関東の武士は佐殿(すけどの)と敬意を表して呼んでいた。
/#かまコメ
源頼朝役・大泉洋さん
\収録現場から撮影直前・直後のコメントをお届けします。
公式HPには こぼれコメントも掲載!#鎌倉殿の13人#大泉洋#源頼朝 pic.twitter.com/I9CJsduueW— 2022年 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」 (@nhk_kamakura13) January 9, 2022
伊豆では約20年間の流人生活と長かったが、その間の記録は少ない。
伊東祐親が監視役だったと言う事もあり、最初から蛭ヶ小島(ひるがこじま)にいたとは考えにくく、当初は、伊東の「北の小御所」に屋敷を与えられていたようだ。
なお、屋敷の中に、ずっと閉じ込められていると言う幽閉ではなく、外出など行き来の自由はあったようで、伊豆半島内はもとより、三浦半島から房総半島まで出掛けたと言う記録もある。
比企尼の婿・安達盛長が側近として仕え、河越重頼・伊東祐清・佐々木定綱・佐々木経高・佐々木盛綱・佐々木高綱・鎌田俊長らも従っていくようになる。
伊東祐親の娘・八重姫と恋仲になり、男子(千鶴丸?)をもうけるが、平清盛の怒りを恐れた伊東祐親は、1175年9月頃?、この幼子を殺害し、源頼朝と八重姫の仲を裂いた。
下記は2人が密会したと言う、伊東・音無神社にある説明。
また、伊東祐親が源頼朝の命も狙ったともされ、比企尼の3娘を妻にしていた、八重姫の兄・伊東祐清が、源頼朝(佐殿)に危険を知らせたとある。
一杯水を経由して、陸路、伊豆山神社(走湯権現)へ逃れた源頼朝は、その後、北条時政が用意した屋敷(蛭ヶ小島)にて暮らすようになったと考えられる。
1177年頃に、源頼朝(佐殿)は、伊豆の豪族・北条時政の長女である北条政子と源頼朝は結婚した。
北条時政が大番役で、京都に赴任していた際に、北条政子(20歳)と源頼朝(30歳)は恋仲になったとされており、当初は反対していた北条時政であったが、2人の婚姻を認め、その結果、源頼朝にとっては大変重要な後援者となった。
1178年には、長女・大姫(おおひめ)が誕生している。
下記写真は蛭ヶ小島にある北条政子と源頼朝の像。
蛭ヶ小島に移ってからか?、比企尼の仲介にて、伊豆・高源寺などにて、文覚と言う僧侶とも、挙兵の相談をしたとされる。
京都の情勢は、三善康信が月3回、知らせていた。
挙兵
1180年、後白河法皇の皇子である以仁王が源頼政と平家打倒の挙兵を計画すると、源行家によって、伊豆の源頼朝にも令旨が届けられた。
挙兵を覚悟した源頼朝は、1180年8月17日、源頼朝は伊豆目代・山木兼隆の邸宅を襲撃して討ち取る。
源頼朝の挙兵に従ったのは、北条時政、北条義時、工藤茂光、土肥実平、土屋宗遠、岡崎義実、佐々木盛綱、天野遠景、大庭景義、加藤景廉らであり、また、三浦義澄、和田義盛らの三浦一族が三浦から合流するべく軍を発した。
一方、源頼朝の挙兵に対して対抗した平家側の武将は、大庭景親、渋谷重国、熊谷直実、山内首藤経俊、伊東祐親らで、8月23日に石橋山の戦いとなる。
大軍に対して敗れた源頼朝は、湯河原や箱根の山中を逃亡したあと、8月28日に真鶴岬から船で安房(房総)へ脱出し、仁右衛門島に隠れた。
のちに、北条時政は合流したようだが、北条政子は伊豆山に留まって、安否を心配する日々を送ったようだ。
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そして、北条時政は甲斐の武田信義・一条忠頼を味方につける事に成功するなどし、上総広常、千葉常胤、葛西清重、足立遠元、小山朝政、下河辺行平も源頼朝に従った。
また、一度は敵対した畠山重忠、河越重頼、江戸重長らも加わるなど、東国の武士たちはたちまちに源頼朝の元に参じ、数万騎の大軍に膨れ上がると、1180年10月6日に鎌倉に入り大倉御所を造営して居を構えた。
こうして北条政子も鎌倉に呼ばれている。
平清盛は討伐軍を発し、平維盛らが駿河へ到達すると、源頼朝らは迎え撃つべく鎌倉を発したが、約2万の大軍になっていたと言う。
一方、平維盛ら平家軍の士気は低く、10月20日、富士川の戦いとなったが、平家軍は脱走兵も多く小競り合い程度で戦闘は終わった。
その後、水鳥の飛び立つ音に浮き足立った平維盛軍は戦意を喪失して潰走し、源頼朝軍はほとんど戦わずに大勝利となった、
その翌日、源頼朝の進軍を聞きつけた、異母弟・源義経が奥州から参じている。
そして、捕えた大庭景親を処刑し、佐竹秀義、志田義広、足利忠綱ら反対勢力を駆逐して東国を固めてから鎌倉に戻った源頼朝は、12月12日、新造の大倉亭にて移徙の儀を行った。
なお、石橋山の戦いで、命を救ってくれた和田義盛が侍所別当に就任している。
源頼朝は東国の主となって鎌倉殿と呼ばれ、北条政子は御台所と呼ばれるようになった。
平家の混乱が続くなか、1181年閏2月4日、平清盛が死去。
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1182年8月、北条政子が嫡男・源頼家を産んだ。のちの2代将軍である。
この懐妊中二、三浦義澄の願いによる安産祈願として、捕虜にしていた伊東祐親を源頼朝は赦免した。
源頼朝は北条政子と結婚する前、伊東祐親の娘・八重姫と恋仲になっており、男子(千鶴丸)までなしていたことを前述したとおり、平氏ーの露見を恐れた伊藤祐親はこの幼い千鶴丸を殺害して、八重姫も他の武士と強引に結婚させていたしまったことがあった。
そのため、伊藤祐親はこの赦免を恥じて自害している。
また、北条政子が妊娠しているとき、源頼朝は亀の前を寵愛するようになっており、伏見広綱の屋敷に住まわせて通っていたと言う。
その話を、北条時政の後妻・牧の方から聞いた北条政子は激怒したと言い、牧の方の父・牧宗親に命じて亀の前が住んでいた伏見広綱の屋敷を打ち壊した。
これに驚いた源頼朝が牧宗親に罰を与えたため、これには北条時政が怒って、一族を連れて伊豆へ引き揚げる騒ぎとなった。
もちろん、北条政子の怒りは収まらず、伏見広綱は遠江へ流罪にされている。
更に、源頼朝は嫡男が生まれる1ヶ月前に、兄・源義平の未亡人である祥寿姫(源氏一族である新田義重の娘)を妻に迎えようとしたが、北条政子の妨害を恐れた新田義重は他家に嫁がせていた。
このように、源頼朝は天皇家の血筋である貴族であったが、北条政子は地方豪族出身と身分には差があったため、正室としてあまりにも出自が低く、地位を守る事に精一杯だったのだろうと伺う事ができる。
さて、小県郡依田城にて挙兵していた木曽義仲(源義仲)が、源頼朝に追われた叔父・源義広・源行家を庇護したため、源頼朝と武力衝突寸前となったが、木曽義仲(源義仲)の嫡子・源義高(清水義高)(11歳)が、大姫(6歳)の婿として鎌倉に入る事で和議が成立した。
下記写真は、源氏山にある源頼朝の銅像。
その後、木曽義仲(源義仲)は倶利伽羅峠の戦いで平家大軍を撃破し、平家を西国へ追いやると、京へ上洛するが、早々に後白河法皇と対立する。
朝廷と京の人々は源頼朝の上洛を望み、後白河法皇は木曽義仲を西国に逃れていた平氏追討に向かわせ、代わって源頼朝に上洛を要請した。
そのため、源頼朝は、源範頼と源義経の軍勢を派遣したが、木曽義仲は源義経らと一戦交える事となり、1184年、粟津の戦い(大津)で木曽義仲は討死した。
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源頼朝は、鎌倉の源義高殺害を企て、これを知った大姫と北条政子は密かに源義高(木曽義高)を女房姿に扮しさせて、鎌倉を脱出させた。
源頼朝は堀親家らに命じて追手を差し向けて、武蔵・入間川で源義高を討っている。享年12。
そのため、大姫は嘆き悲しみ病床に伏してしまい、母の北条政子は、源義高を討った郎従の不始末のせいだと源頼朝に強く迫り、源義高を討った武将・藤内光澄は晒し首にされたと言う。
大姫はその後も憔悴を深め床に伏す日々が続き、病から回復することなく、のちわずか20歳で亡くなった。
※大姫の墓
1184年4月8日、一ノ谷の戦いで捕虜になった平重衡が鎌倉に送られると、平重衡の器量に感服した源頼朝は御所内に一室を与えた。
北条政子は官女の千手の前(せんじゅのまえ)を付け与えている。
平重衡は、1185年に東大寺の強い要望で引き渡されて、興福寺・東大寺焼き討ちの罪で斬られたが、千手の前は平重衡の死を悲しみ、約3年後に24歳で死去している。
鎌倉幕府創設へ
1185年、源頼朝らの活躍により壇ノ浦の戦いで平家が滅亡し、源頼朝は朝廷から守護・地頭の設置を認められ、現在の教科書では、鎌倉幕府成立の年とされている。
平家滅亡後、源頼朝と対立し挙兵に失敗した源義経は都を落ちた。
そして、1186年、源義経の愛妾・静御前と母・磯禅師が捕らえられて鎌倉へ送られている。
北条政子は白拍子の名手である静御前に舞を所望し、度重なる要請にようやく応じた静御前は鶴岡八幡宮で白拍子の舞いを披露した。
この時、源頼朝の目の前で「吉野山峯の白雪ふみ分て、入りにし人の跡ぞ恋しき 」「しづやしづしずのをたまきをくり返し、昔を今になすよしもがな 」と、源義経を慕う歌を詠ったため、源頼朝は激怒したが、北条政子が「私のあの時の愁いは今の静の心と同じです。
義経の多年の愛を忘れて、恋慕しなければ貞女ではありません」と、源頼朝が挙兵し、別居していた不安の日々を語り、この言葉を受けて源頼朝は静御前に褒美を与えたと言われている。
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のち、北条政子と静御前は、大姫を慰めるために南御堂に参詣して舞を納めた。
静御前は源義経の子を産んだが、北条政子の助命も源頼朝は受け入れず殺害を命じた。
静御前は泣き喚いて離さなかったが、磯禅師が子を取り上げて安達清常に渡し、由比ヶ浜の海に遺棄されたと言う。
その後、静御前と母・磯禅師は、北条政子と大姫より多くの重宝を与えられて、京に帰ったとされる。
1189年、奥州に逃れていた源義経は、藤原泰衡に攻められて自害。
その後、源頼朝は奥州藤原氏を滅ぼして、鎌倉に凱旋した。
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1192年、北条政子は源実朝を産んだが、その数日前に源頼朝が征夷大将軍に任じられてた。
この時、7歳になっていた貞暁と言う男子が、京・仁和寺に送られて出家している。
この貞暁は、源頼朝と侍女であった大進局との間に1186年に生まれていた男子で、出産の儀式も省略されて、大進局は北条政子の嫉妬を恐れていたため、深沢の辺りに身を隠し住んでいたと言う。
北条政子を恐れて乳母のなり手もいなかったと言う貞暁は、北条政子が2人目の子を産む3ヶ月前に、出家させられたのだ。出発の日には、密かに源頼朝が見送り刀を与えたと言う。
1194年、北条政子は、病に伏せっている大姫と、源頼朝の甥であり公家の一条高能との縁談を勧めたが、大姫は、亡き源義高(木曽義回)を慕い続けており頑なに拒んだとされる。
1195年、北条政子と源頼朝は京に上洛し、大姫を帝である後鳥羽天皇へ入内できないか協議したと言う。
なお、吾妻鏡では1195年12月に、源頼朝が安達盛長の甘縄邸にて宿泊したと言う記述以降、1196年から約3年間、源頼朝が死去する1198年も含めて話が欠落しており、源頼朝の晩年に関しても不明となっている。
その間、大姫の病は回復せず、1197年に死去した。
そのため、源頼朝は3娘・三幡を入内させようとしたが、朝廷の実力者・土御門通親に阻まれたとある。
また、親鎌倉派の関白・九条兼実が失脚したため、源頼朝は再度の上洛を計画したが、1189年12月に、重臣の稲毛重成が亡き妻のために相模川に橋をかけ、催された橋供養からの帰路で体調を崩した。
原因は落馬と言われるが、1199年1月に急死している。享年53であった。
この源頼朝の死に関しては、13年後の1212年の吾妻鏡の記述中で触れられており状況がわかっている次第。
その後、源頼家(18歳)が家督を継ぎ、北条政子は出家して「尼御台」と呼ばれるようになる。
源頼朝の死の5ヶ月半後に3娘・三幡(乙姫)が高熱を発し、14歳で死去。
若い源頼家では鎌倉政権を支え切れず、1200年、大江広元、梶原景時、比企能員、北条時政、北条義時ら老臣による13人の合議制が定められた。
しかし、従来の習慣を無視した源頼家の独裁的判断は、御家人たちの反発を招いて行く。
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こんな話もある。
源頼家が、安達景盛の愛妾を奪うと言う事件が起きた際には、恨んだ安達景盛を源頼家が討とうとしたが、北条政子が楯となって安達景盛の屋敷に入り「安達景盛を討つならば、まずわたしに矢を射ろ」と源頼家を訓戒して騒ぎを収めたと言う。
梶原景時が失脚すると、源頼家は乳母の夫・比企能員を重用し、比企氏の娘・若狭局を側室とするなど関係を強めたため、源頼家と老臣との対立は深まり、ついに源頼家は北条時政の討伐を命じる。
これを障子越しに聞いていた北条政子は、父・北条時政に連絡すると、比企能員を謀殺した。
こうして、主導権を握った北条政子と北条時政は、源頼家の将軍職を奪い、伊豆の修善寺に幽閉され、のちに暗殺された。享年23歳。
第3代将軍に源実朝が就任すると、北条時政が初代執権となる。
北条時政の謀略によって畠山重忠・畠山重保の父子が討死した畠山重忠の乱のあと、北条時政と後妻・牧の方は、1205年に源実朝を廃して、女婿・平賀朝雅を将軍に擁立しようとした。
この時、北条政子は弟・北条義時と共に、父・北条時政を出家させて伊豆へ追放し、代って北条義時が執権になっている。
なお、北条政子は後難を憂いて、亡き源頼家の子を仏門に入れている。
下記写真は、伊豆・韮山の北条時政館跡。
1213年には、北条氏の権力集中を快く思わない侍所別当の和田義盛を滅ぼした(和田合戦)。
1218年、北条政子は従三位に叙せられ、この時、父・北条時政の名から1字を取って「北条政子」と呼ばれるようになったが、それ以前の名前は不明である。
1219年、右大臣拝賀の式のために鶴岡八幡宮に入った源実朝は、鶴岡八幡宮の別当・公暁(源頼家の子)に暗殺された。
その後、北条政子と北条義時は、後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えようとしたが拒否されたため、摂関家から三寅(藤原頼経)(2歳)を迎えた。
しかし、まだ幼かったため、当然政務は取れず、北条政子が鎌倉殿として後見することになり「尼将軍」と呼ばれるようになった。
権力の復権を目指す後鳥羽上皇と、鎌倉幕府との対立が深まると、1221年に、後鳥羽上皇は京都守護・伊賀光季を殺害して挙兵。(承久の乱)
動揺した鎌倉の御家人であったが、北条政子は「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の綸旨が下された。秀康、胤義(上皇の近臣)を討って、三代将軍(源実朝)の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい」と発表(演説)し、大江広元の積極策を北条政子は承諾して、後鳥羽上皇の軍勢をたちまち討伐し、後鳥羽上皇は隠岐島へ流された。
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1224年、北条義時が急死すると、北条義時の妻・伊賀の方が、庶長子・北条泰時を差し置いて、実子・北条政村の執権擁立を三浦義村と画策。
北条政子は三浦義村の屋敷に訪れて、執権職は北条泰時が継ぐべきだと諭し、伊賀の方は伊豆に追放となった。
こうして北条泰時は42歳で第3代執権となったが、遺領配分では弟妹に多く与え、自分はごく僅かな分しか取らなかったと言う。
病の床に付いた北条政子は1225年7月11日死去した。享年69。
勝長寿院で荼毘に付され、神奈川県鎌倉市の寿福寺に葬られた。墓は源実朝の胴墓の近くにある。
さて、北条政子の後押しもあって執権となった北条泰時は、日本最初の武家法典となる「御成敗式目」を制定し、身分の上下になど関係なく公平な裁判を行うと言う法律を作るなと、名執権と称された。
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旧相模川橋脚
鎌倉幕府の創設者である源頼朝にまつわる橋が、この「旧相模川橋脚」です。
源頼朝がこの相模川に掛かる大橋の竣工式に出席した帰り、平家の亡霊に驚いた馬が暴れ出して、川へ落ちてしまいました。
それから相模川の下流部分は馬入川(ばにゅうがわ)と呼ばれています。
この時、源頼朝は落馬した際に、ケガをしたようで、その傷がもとで亡くなったとする説もあります。
この旧相模川橋脚は、1198年に稲毛重成が、亡き妻(北条政子の妹・稲毛女房)の供養のために相模川に架けた大橋である事が分かっております。
その橋脚と思われる木の杭が、関東大震災の時の液状化現象にて、この現在の場所に突然露出致しました。
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橋杭の年輪年代測定を行ってみると、1126年~1260年に伐採されたことが判明し、橋脚に近接する川岸の護岸には中世前半期の厚さ11センチメートルもの横板・角柱・礫なども確認でき、昔の相模川の掛けた大橋の跡であることが分かったのです。
旧相模川橋脚が保存されている場所は、下記の地図ポイント地点となります。
駐車場はないのすが、すぐ隣がニトリさんでして、買い物がてら、駐車させて頂きました。
源頼朝落馬の地
相模川の橋から鎌倉に帰る際に、体調を崩した源頼朝が、落馬した場所とされるのは、辻堂駅の南側とされます。
下記は、源頼朝落馬地にある案内板です。
源頼朝落馬地になっている場所ですが、当方のオリジナル地図の中にて「落馬」と検索して頂けますと幸いです。
2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、源頼朝を俳優の大泉洋さんが演じられます。
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