武田信玄と武田家ゆかりの城・寺院・合戦場・隠し湯など一覧


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人は城

 武田信玄は「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」と歌い、甲斐に城は必要ないと言ったとされる。
 実際に、武田信玄は甲斐に防御に優れた城を築かなかったが、この「人は城」の言葉じたいは江戸時代になって創作された歌とされる。

 甲斐の防衛を考えると、東側は雁坂峠・笹子峠があり、峠で敵を待ちかまえれば良い。
 南方の御坂峠や鰍沢口も富士川の断崖により狭まった道で適を撃退すれば良い。
 一番攻め込まれやすい諏訪や佐久は、早いうちに戦を仕掛けて領有化した。
 その為、盆地である甲斐は、その周囲そのものが外壁の役目を果たしていたので、特段、強力な城は必要なかったと言える。

 ただし、防御をさぼっていた訳では無く、父・武田信虎の時代に整備された躑躅ケ崎館は追加で大きく造営され、三日月堀なども充実し、背後の要害山城も、万が一に備えさせたのは言うまでもない。
 武田勝頼の時代には、織田信長の侵攻が現実味を帯び、韮崎に新府城を築いたり、江戸時代には甲府駅前の甲府城が造営されたが、いずれも武田信玄の死後の話である。

 下記の武田家に所縁ある人気スポットは、私の個人的なお勧め順として掲載させて頂くが、山梨限定と言う事ではないので、その点だけご理解賜りたい。

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武田神社

 
 武田信玄の居城である躑躅ヶ崎館の跡地に大正時代に建てられた神社。
 館は失われているが、土塁・曲輪・堀など戦国時代の構造が残っており、武田信玄の地を感じられる山梨・甲府での人気観光地。
 有料拝観の宝物殿では武田家の貴重な品々の展示もある。
 毎年4月の信玄公祭りでは、甲府駅から武田神社までの武田通りの桜並木を、神輿と地元住民による山本勘助などの騎馬行列が通る。
 武田神社の詳細はこちら

 甲府信玄公祭り 遠方からの攻略法・駐車場・アクセス・場所取り

 付近の見どころは下記。

 

武田信玄の墓

 
 江戸時代になって武田信玄の石棺が発見された場所。
 武田信玄の墓(武田信玄火葬塚)の詳細はこちら

 甲府城(舞鶴城)-武田氏滅亡後に作られた新しい城だが、武田の遺臣・柳沢吉保とその子、柳沢吉里などが城主として政務を執った。
 甲府城の詳細はこちら
 要害山城址-躑躅ヶ崎館に付随した山城で、武田信虎が福島正成に攻められたとき、大井夫人がここで武田信玄を産んだ。見学は軽登山装備が必要。
 湯村山城跡-武田信虎が石和から躑躅ヶ崎に拠点を移した際には、構築した山城。見学は軽登山装備が必要。
 甲斐善光寺-川中島の戦いによって、長野の善光寺の別当・栗田氏も武田家・上杉家に分裂し、栗田氏と善光寺本尊がこの甲府の善光寺に移されていた。
 甲斐善光寺の詳細はこちら
 甲斐大泉寺–武田信虎の霊廟があるが、武田信玄と武田勝頼の墓も存在する。
 甲斐大泉寺の詳細はこちら
 東光寺-武田信玄に攻められた諏訪頼重が自害した寺で、武田信玄の長男・武田義信が幽閉されて死去した寺でもある。甲府五山の1つ。
 東光寺の詳細についてはこちら

恵林寺

 
 塩山にある武田家の菩提寺で、武田勝頼が武田信玄の葬儀を行った場所で、有料拝観で武田家臣の墓や、武田信玄の墓も拝観可能。
 織田信長が甲斐を制圧した際に、恵林寺は焼き討ちされ、快川紹喜の「心頭を滅却すれば火も自ら涼し」は有名。
 江戸時代に再建され、武田遺臣・柳沢吉保の墓にもなった所となり、別途、信玄公宝物館も有料拝観可能。
 恵林寺の詳細はこちら

向嶽寺

 
 武田家の寄進を受けた禅寺で、武田信玄の娘・松姫仁科盛信の娘・小督姫、武田勝頼の娘・貞姫小山田信茂の娘・香具姫(香貴姫)らが、八王子に逃れる際、約1ヶ月隠れ住んだ寺。
 内部は非公開の向嶽寺だが、立派な境内を持つ。塩山にあるので上記の恵林寺とセットでどうぞ。
 向嶽寺の詳細はこちら

 付近の見どころ

 大井俣窪八幡神社-清和天皇の勅願により859年に宇佐神宮が勧請され、その後は武田家の崇敬も得て、武田信虎・武田信玄や家族の参拝も多かった。山梨市にある。
 雲峰寺-武田滅亡の折り、武田家臣により武田家伝来の家宝が運び込まれた寺で、宝物殿が有料拝観可能。裂石温泉の近く。
 
 雲峰寺の詳細はこちら

大善寺

 
 関東屈指の古刹で、武田勝頼が岩殿城に逃れる際に宿泊した寺で、その際、武田一族の理慶尼が世話をした。
 大善寺の本殿「薬師堂」は国宝に指定されており、有料拝観となるが、山梨の寺院としては一番の見どころである。
 大善寺の詳細はこちら

 付近の見どころ

 勝沼氏館跡-武田信虎の弟・勝沼信友とその子・勝沼信元と勝沼松葉の館跡で、国史跡に指定され公園となっている。
 
 勝沼氏館跡の詳細はこちら

景徳院

 
 甲斐に入った徳川家康が、武田勝頼を弔うために終焉の地に築いた寺で、武田勝頼・北条夫人・武田信勝らの墓がある。
 景徳院の詳細はこちら

 付近の見どころ
 天目山の戦い古戦場跡(鳥居畑の戦い四郎作の戦い首洗池土屋惣蔵片手切り思案石)

 

 天目山栖雲寺-武田勝頼が最後に目指した地。かなり山深いところです。
 

 天目山の戦いについてはこちら

新府城跡

 武田勝頼が築いた城。完成前に織田勢に攻められ、自ら火が放ち岩殿城を目指して逃亡した。現在、城跡に神社が建てられている。
 新府城の詳細はこちら

 付近の見どころ

 若神子城-武田勢が諏訪や佐久へと出陣した際、よく立ち寄った城。
 若神子城の詳細はこちら
 武田八幡宮-鎌倉時代初期の武田信義から氏神とされ、武田家は歴代保した。現在の本殿は武田信玄の造営。
 武田八幡宮の詳細はこちら
 涙の森-武田勝頼ら一行が振り返り、燃え盛る新府城を見て涙したとされる場所
 
 涙の森の詳細はこちら
 信玄堤-武田信玄による治水工事を現在に伝える史跡。
 
 信玄堤の詳細はこちら

岩殿山城(岩殿城)

 大月にある断崖絶壁の上にある山城で、武田勝頼は新府城からこの岩殿山城を目指した。
 
 岩殿山城の詳細はこちら

 付近の見どころ
 
 矢立の杉-戦勝祈願に武士が矢を射立てる杉で、源頼朝が行った伝説もある。笹子峠付近。
 勝山城-郡内を収めた小山田氏が築いた居城。
 勝山城の詳細はこちら


長野県編

 善光寺-善光寺平の要衝として武田信玄と上杉謙信との間で争われた。
 川中島の戦い-信濃と越後の境に当たる。武田信玄と上杉謙信が5度にわたる戦いを行った。決着はつかなかったようだが、武田方がこの地を支配するようになった。長野市。
 川中島古戦場跡についてはこちら
 海津城(松代城)—川中島の戦いの拠点として武田信玄が築城したとされる。長野市。
 
 松代城(海津城)についてはこちら
 深志城(松本城)—信濃守護の小笠原家の城であったが、武田信玄が制圧後に松本平の支配の拠点とする。松本市。
 松本城の詳細はこちら
 諏訪大社-武田信玄が姻族の諏訪氏から奪い、軍神として保護した。
 海ノ口城跡-武田信虎の下、信玄が初陣を飾った城。佐久郡南牧村。
 安国寺-武田信玄と諏訪氏の一族である高遠頼継の古戦場。寺は武田氏や復興した諏訪氏の保護を受けたが、現在は移転している。茅野市
 志賀城跡-佐久で武田信玄に対抗した笠原清繁の居城。城は陥落し、城下には笠原清繁の首塚とされる五輪塔が残る。佐久市
 砥石城-北信濃の村上義清が守り、攻める武田信玄が砥石崩れという大敗をした場所。上田市
 砥石城(戸石城)の詳細はこちら
 竜雲寺-武田信玄の遺骨が埋葬されている寺。
 駒場・長岳寺-武田信玄が他界し荼毘に付されたとされる寺。遺品などが残されている。下伊那郡阿智村
 長岳寺の詳細はこちら
 根羽の信玄塚-武田信玄が死去した地とされるひとつで、武田信玄の墓がある。
 信玄塚の詳細はこちら

群馬県・埼玉県編

 岩櫃城-関東管領上杉氏に属する斉藤氏の城を武田氏家臣の真田氏が攻略する。真田昌幸が城代となり、織田勢の甲州攻略に際し真田氏は武田勝頼をこの城に迎えようとするが叶わず。東吾妻町
 岩櫃城の詳細はこちら
 倉賀野城跡-上杉憲政配下の倉賀野氏の城を武田信玄が攻略した。高崎市
 箕輪城-上杉憲政配下の長野氏の城を武田信玄が攻略した。高崎市
 
 箕輪城の詳細はこちら
 武蔵松山城-関東管領上杉氏の城を北条氏が奪い、さらに上杉謙信が攻略する。その後に武田信玄と北条氏の連合軍が攻め落とした。この際に武田信玄は坑道を掘る金山衆を投入したと言われる。埼玉県吉見町
 鉢形城-関東管領上杉氏の城を北条氏が奪取する。武田信玄は小田原攻めの際にこの城も攻め、後には上杉謙信もこの城を攻めた。現在跡地に歴史館が建っている。埼玉県寄居
 
 鉢形城の詳細はこちら

静岡県

 高天神城-今川氏の城で、今川義元没後に武田信玄と徳川家康が同盟して駿河を攻め、家康がこの城を攻略する。しかしすぐに両者は仲違いし、信玄は徳川方のこの城を攻めるが諦めて撤退する。後に勝頼がこの城を攻略した。掛川市
 
 高天神城の詳細はこちら
 諏訪原城-対徳川で築いた名城
 
 諏訪原城の詳細はこちら
 小山城-高天神城への中継点として武田滅亡まで死守した城
 
 小山城の詳細はこちら
 二俣城-激戦となった二俣城の戦い
 二俣城の詳細はこちら
 大宮城跡-今川氏方の富士氏の城で、1568年に武田勢が今川氏を攻めたとき一度は撃退するも、翌年に武田信玄に攻略された。富士宮市
 薩埵峠-1568年武田信玄と今川氏配下の庵原忠胤が戦い、翌年には武田信玄と北条氏政が戦った。静岡市清水区
 
 薩った峠の詳細はこちら
 蒲原城-今川義元没後に今川氏の同盟者である北条氏が入るが、駿河侵攻を目指す武田信玄が攻め落とす。後に徳川氏によって攻略される。蒲原町
 蒲原城の詳細はこちら
 韮山城-北条早雲の築いた城で、武田信玄の駿河攻略に際し勝頼らが攻めるが北条氏規が守り切った。伊豆の国市
 韮山城の詳細はこちら
 興国寺城-武田信虎の時代に武田・北条・今川で争う。今川義元が所有したが、死後に北条氏が奪い、さらに甲相同盟復活に際して武田方に引き渡される。沼津市
 興国寺城の詳細はこちら
 葛山城-武田信玄の6男を養子に入れて掌握した葛山氏の本拠地。裾野市
 葛山城の詳細はこちら
 深沢城-今川氏の城だったが義元没後に北条氏と武田氏で争う。信玄は金山衆を投入してこの城の攻略を図った。御殿場市
 深沢城の詳細はこちら
 高根城-高遠から浜松に抜ける武田勢が抑えた山城。浜松市北区
 高根城の詳細はこちら
 三方ヶ原の戦い-武田信玄と徳川家康との戦があった場所で、武田信玄の上洛を目的とした遠江・三河侵攻であり、徳川家康の生涯のなかで大敗した数少ない戦いとしても知られている。武田軍に追い立てられて一目散に遁走する徳川家康が本拠地の浜松城に着くまでの間、騎乗中に脱糞していたとか、浜松城に逃げ帰った徳川家康は門を開門し、篝火を焚いて武田軍を待ちうけて疑心暗鬼にした(空城の計)とか、この戦に敗れた徳川家康はこの時の屈辱を忘れない様に、その時の苦渋の表情を絵師に描かせた顰面(しかみ面)像などの逸話が残る。尚、この合戦に勝利し京への上洛を目指すはずだった武田軍だが、途中で武田信玄の急病により西進は中止、本拠地の甲斐に引き上げる事になる。そしてそのまま快方に向かう事無く武田信玄は病により没することになる。
 三方ヶ原の戦いの詳細はこちら

神奈川県・東京編

 滝山城– 関東管領上杉氏の城を北条氏が奪取する。信玄の小田原攻めのときに途中のこの城の攻略を図るが、北条方は守り抜いた。八王子市
 
 滝山城の詳細はこちら
 八王子信松院-信玄五女の松姫は織田信忠との政略結婚に破れた後どこにも嫁がず、織田軍の侵攻に際して八王子まで逃げ延びた。のちに出家して尼となり草庵を結んで、これが今の信松院となっている。八王子市
 三増峠の戦い—武田信玄が小田原城を攻めあぐねて甲斐に帰還する際に北条氏が三増峠に出兵し退路をふさごうとした。この戦いで初めは北条有利であったが、結局信玄の勝利となった。愛川町
 
 三増峠の戦いの詳細はこちら
 津久井城-武田信虎と北条氏綱の頃から攻防があり、三増峠の戦いの際にも武田勢は津久井城を抑えた。相模原
 
 津久井城の詳細はこちら
 小田原城—北条氏の本拠地で、上杉謙信や武田信玄の攻撃にも耐えた。小田原市。
 
 小田原城の詳細はこちら
 星の谷-武田信玄が天下を取って「新鎌倉」を設立しようと考えていた場所があります。それが「星の谷」です。
 
 星の谷の詳細はこちら

愛知県

 足助城-足助鈴木家の城を徳川家康が攻め、配下とするも、1571年に武田信玄が攻略。しかし、翌々年に徳川家康が取り戻した。愛知県足助町
 足助城の詳細はこちら
 野田城-菅沼氏の城で今川・徳川・武田が争う。信玄の西上作戦のとき徳川方であり、信玄は金山衆を投入して攻略した。この際に信玄が狙撃されたという伝説があり、これが黒沢明の映画『影武者』の題材となった。 愛知県新城市
 野田城の詳細はこちら
 吉田城—今川氏の城を徳川家康が攻略する。後に武田信玄に攻めれるが守り抜いた。現在は豊橋公園となっており、模擬再建された城がある。愛知県豊橋市
 吉田城の詳細はこちら
 長篠の戦い・設楽原の戦い長篠城を攻める武田勝頼と城への援軍である織田・徳川連合軍の決戦の地。武田勢が大敗したため、従来は武田の騎馬隊に対して織田の鉄砲隊が勝ったとされてきたが、この説には問題が多い。長篠には長篠城址史跡保存館が、設楽原には設楽原歴史資料館がある。愛知県新城市
 長篠の戦い・設楽原の戦いの詳細はこちら
 長篠城-長篠の戦いの前線基地となった城。武田家と徳川家が取り合った。
 長篠城の詳細はこちら


金山

 武田信玄は領国経営のために金山の開発を行い、甲州金と呼ばれる金貨を発行した。もっとも有名な黒川金山は近年では武田氏の直接経営ではないとされることが多いが、金山衆と呼ばれる技術者とは関係を持ち、駿河深沢城攻略の際には金山衆を投入している。

 黒川金山(甲州市)、湯之奥金山(身延町)、御座石金山(韮崎市)、雨畑金山・黒桂金山・稲又金山・保金山(早川町)など

信玄の隠し湯

 湯村温泉・積翠寺温泉(甲府市)、川浦温泉(山梨市)、下部温泉(身延町)、塩山温泉・嵯峨塩温泉(甲州市)、増富温泉(北杜市)、奈良田温泉西山温泉(早川町)

 最後に山梨県内のこのような武田家の史跡などを巡る場合には、鉄道・バスは本数が少ない為、マイカーやレンタカーが主流となる。
 また、甲府市内は国道20号など、平日の昼間でも渋滞するので、付け加えておく。

武田信玄についてはこちら
武田家の家臣カテゴリは110記事以上
高野山・奥の院にある武田信玄・武田勝頼の供養碑

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コメント

  1. 柳沢吉保が武田の遺臣とは知りませんでした。またまた家康の大きさを知ってしまった・・(笑)
    もしや真田をやっていたら武田が気になられました?もしそうなら、なんとなくその気持ちわかります。近いし武田面白いですしね。うちら夫婦で真田探訪していた頃を思い出しました!真田本城へ行ったとき、変なおっさんが車でやってきて「おたくらどっからきたの?」と煙草をすいながら(ちゃんと携帯タバコ捨てをもってましたよ)聞いてきて「ここは本城っていってるけど、本城じゃない。もうちょっと向こう。あと
    上田城は江戸時代にできてるから違うし、知りたいなら松代に行け」といって車の後ろを開けて何故か段ボールに沢山積んでた松代MAPを一枚くれました。さんざん夢を砕かれ、そののち一時間ガッツリ話し込んでしまって松代に行けなかった思い出があります(笑)あのおっさん元気にしてるだろうか?そして平日なのになんでまた真田本城に居たんだろうか?謎も多かったのですが楽しい思い出です♪

    • 高田哲也
    • 2015年 3月 23日

    寺田さま、いつもコメントありがとうございます。
    私も最初は柳沢吉保が武田家とゆかるあねとは存じてあげておりませんでした。
    しかし、元禄の時代に将軍・徳川綱吉のもと、一介の小禄である小姓から大老格にまで出世した柳沢吉保のお蔭で、武田家菩提寺の恵林寺や甲府の興隆発展に寄与したの大きな功績だと存じております。
    そういう意味では、徳川家康が多くの武田旧臣を召し抱えたと言うのは、武田家の旧臣にとっては大変ありがたいことだったと言えますよね。
    真田本城は詰めの城として機能していたとは思いますが、少なくとも上田城は武田が滅んだ後に真田昌幸が築城開始していますから、さすがに江戸時代のものとするのは語弊があるかかと・・。
    松代城の城郭の方が、真田信之が海津城を更に改築したように思えますが、どうなのでしょう?
    今度4月には上田を再訪して、真田祭りも取材して来る予定ですので、そのあたりも踏まえて、5月中旬ころには真田家の記事も追加でUPしたいと存じます。

  1. 2015年 10月 05日

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