小山田記~ 現認・小山田氏400年の存亡【小山田氏関連の考察とまとめ】


スポンサーリンク
スポンサーリンク

 小山田氏の祖である鎌倉武士・小山田有信から、戦国武将で武田信玄に臣従していた小山田信茂までの「小山田氏」を調べ始めて、かれこれ10年になります。
 最後に武田勝頼を裏切ったイメージが強い小山田氏ですが、よく考えて見れば、小山田家も常に存亡を懸け、熱く生き抜いていたことが伺えます。
 2015年度の総決算として、そんな「小山田氏」の新たな発見なども含め、このページからの関連記事もご覧頂ければ小山田家のすべてがわかるよう、敬意を表し、まとめさせて頂きました。
 全部見ますとかなりの時間を要するかと存じますが、お時間の許す限り、ご高覧賜りますと幸いでございます。

 スポンサーリンク


 小山田氏(おやまだ)は、平安時代末期に武蔵・小山田荘(東京都町田市)を本領として、小山田有重と称したことから始まります。

 →小山田氏・小山田有重~小山田氏の祖

 小山田有重は小山田別当と呼ばれています。
 平安時代の多摩は勅旨牧(ちょくしまき)と言い、天皇直轄の牧場があちこちにあり、別当と言うのはその牧場(荘園)の管理者と言う意味となります。
 別当は、京から主に天皇と血縁関係がある貴族が赴任しており、やがてその赴任先の領主となり武装化し、すなわち「武士」の誕生の1つでもある訳です。
 多摩は適度な丘・湧水・小川・池があちこちにあるため、馬の飼育に適した土地です。
 横山党とこの小山田氏、平山氏などが多摩に見られますが、皆、牧場関連ですので、馬に乗る事が得意です。
 そのため、源頼朝の元では、源義経の鵯越の坂落しなど、騎馬武者として大活躍したのです。
 現在、町田市小山田にある大泉寺が小山田氏の館跡と伝えられ、境内には小山田有重・小山田行重の父子と、南北朝時代の小山田高家の宝篋印塔があります。

 →小山田城跡

 なお、小山田有重の母は横山党・横山孝兼(小野孝兼)の娘とされますので、八王子の巨大勢力・横山党とも姻戚関係にあり、小山田氏も安定した地域支配をしていました。

 横山党と小山田氏の先祖

 その横山党は1213年5月の和田合戦にてほとんど討死してしまいます。 (和田合戦~経緯と戦闘詳細【和田義盛の乱】)

 その時、鎌倉幕府内にて権力を強めていた小山田有重が、横山党の広大な遺領の多くも受継いだと考えています。
 ちなみに小山田有重の妻は、八田宗綱(宇都宮宗綱)の娘で、一ノ御前(内ノ御前)とも言い、小山田神社などで祭られています。

 →小山田神社と内御前(一ノ御前、嶽の内御前)のなぞ

 また、小山田有信には6人の子(5人とも?)がおり、長男はどうも幼少の頃に亡くなったようですが、後継者とされる次男の小山田重義は近くの小野路城に入り、有力御家人・梶原景時の娘を妻に迎えました。

 →小野路城(結道城)と鎌倉古道の訪問記と写真集
  
 3男・小山田重成(稲毛重成)は川崎市の大部分となる稲毛庄・枡形城を築き、妻にはなんと北条政子の妹(北条時政の娘)を迎えています。
 これで、小山田氏は、のちに執権となる北条家だけでなく、鎌倉幕府の将軍家とも親戚関係となり、更に権力を強めたのです。

 →枡形城~稲毛有重の稲毛荘

 4男・榛谷重朝は、武蔵の榛ケ谷庄(御厨屋の庄)を治めました。榛ケ谷は今でいう横浜市保土ヶ谷区ですが、二俣川あたりも所領だったと推測されています。

 5男・小山田行重(又は小山田行幸)は、母(横山孝兼の娘)が祖父・秩父重弘と結婚したとき持参した甲斐国都留郡田原の地を相続します。この系統が戦国時代の武田家で活躍する小山田氏となります。

 このよう鎌倉からも近い所領にて、御家人としてかなりの勢力を誇った小山田家ですが、1205年6月22日、畠山重忠の乱が勃発します。
 この時、独占権力を狙う北条時政(北条政子の父)の謀略にて、榛谷重朝、その子・榛谷太郎重季、榛谷次郎秀重、稲毛重成、その子の小沢城主・小沢重政が鎌倉の邸宅にて討たれます。
 この事件により、多摩川の西岸の多くを所領していた小山田氏は粛清・失脚し、本領の小山田付近のみを所領とした小山田氏と、郡内(山梨県都留市)の小山田氏のみが存続することになったようです。

 →小沢城(川崎市)と小沢原の戦い~勝坂と隠れ谷

 次男で小野路城主となっていたは小山田重義は、うまく生き延びたようで、この辺り史料も乏しいのですが、その子・小山田小三郎の系統が小山田家の本流としてその後、細々と残ったものと小生は考えています。

 →小山田重義となぞの小山田義重を検証してみた
 →小山田神明神社は小山田城(小山田館)の支城(砦)であった可能性も?

 約100年後である1331年には、新田義貞の挙兵に小山田高家(小山田小太郎高家)なる人物が参加し、小山田郷を取り返したとあります。
 小山田高家は、初代・小山田有重から6代目だとされています。
 しかし、1336年に小山田小太郎高家は、大将・新田義貞を救うため湊川の戦いで、新田義貞の替玉となって討死しました。

 →小山田氏に関連する 浄瑠璃姫伝説(長池伝説)
 →矢部八幡神社(箭幹八幡宮)と小山田高家のなぞ

 また、小山田一族である川崎の小沢氏の動向としては、応安年間(1368年~1374年)頃、小沢国高(小沢左衛門尉国高)が築いたとされる小沢蔵屋敷(小沢氏館)があったと言う伝承もあります。
 そのため、小沢氏系の小山田氏も一族は生き延びていた可能性もあります。

 →小沢城(川崎市)と小沢原の戦い~勝坂と隠れ谷・小沢蔵屋敷

 戦国時代に入ると、韮山城から小田原城に入った北条早雲が相模、そして武蔵へと進出を計ります。
 そして、1559年の小田原衆所領役帳には、成瀬や小山田庄靏間(16貫272文)など16村に合計419貫812文として小山田弥三郎の名がみられます。
 小山田庄靏間の靏間は「つるま」と呼びますので、町田の鶴間は小山田氏が領地としていたと考えられます。

 →成瀬城と小山田弥三郎の関係を考えてみる【戦国の小山田氏考察】

 なお、伊豆では小山田弥五郎の名が見られ、こちらも小山田一族であると推測でき、小田原城主・北条家の家臣になっていたと考えられます。
 郡内の小山田氏が、武田家だけでなく、北条家からも知行していたとする説もあります。
 難しい判断が求められるところなのですが、2重で知行していたと言う事は、小生はないだろうと推測しています。
 その辺りの見解も、上記の成瀬城に掲載させて頂いております。

郡内・小山田氏

 山梨県の大月市から都留市・富士吉田市までの地方(都留郡)を「郡内」と呼びます。
 小山田城主・小山田有重の6男・小山田行重(又は小山田行幸)が、都留郡の田原荘に入ると田原行幸(たわらゆきひら)と称し、1192年から定住したとされます。

 →郡内小山田氏の特色

 最初は都留郡波加利荘(現在の初狩)に住んだようですが、その後鎌倉幕府は、波加利荘を武田信光(甲斐・武田家2代)に与えていますので、山梨でも紆余曲折あったようです。

 なお、3代・小山田重幸の時に、小山田弾正家と言う分家ができ、6代・小山田信膳の代には、小山田衛門佐家(右衛門佐家)が、11代・小山田信実の代には、小山田備中守家(石田小山田氏)と分家が誕生しています。
 ちなみに、小山田備中守家は、上原家の出自の小山田虎満である石田小山田氏と言う小山田一族として、武田信玄の時代に見受けられます。

 さて、郡内での小山田氏は、1393年の時点で本拠が中津森館付近とあり、鎌倉建長寺から格智禅師を招いて、富春山桂林寺を建立し、菩提寺としています。

 →小山田氏の中津森館と長生寺・桂林寺・用津院とは

 この桂林寺の開祖は小山田富春(小山田出羽守富春)とされ、富春寺の開祖でもあるとされます。

 →富春寺~小山田出羽守富春開祖の小山田氏菩提寺

 また、1394年には、小山田信澄と言う名が妙法寺記にあり、所領を寄進しました。
 その後も、戦国時代の1532年頃まで、郡内は中津森付近が中心として栄えたと考えられます。

 1416年の上杉禅秀の乱にて、小山田氏の名が見られます。
 小山田弥二郎は甲斐守護・武田信満と共に鎌倉公方・足利持氏と戦いました。武田信満の正室は小山田弥二郎の娘ですので、武田家とは親戚衆と言う事で一緒に出陣したのでしょう。
 しかし、敗北して甲斐へと逃れ、上杉憲宗の討伐軍と猿橋の要害にて迎撃したとありますが、これも敗戦し武田信満と小山田弥二郎は甲州都留郡木賊山にて自刃したそうです。
 この時、小山田弥二郎だけでなく多くの小山田一族も自害したとあり、郡内・小山田氏は滅亡したと言っても過言ではありません。

 その後の郡内ですが、御子孫である小山田了三氏の解説によると、上杉憲実の家臣になっていた小山田衛門佐(えもんのすけ)家の小山田信美(のぶみ)が、郡内・小山田家を継承したとあります。
 すなわち、郡内・小山田氏の本流は絶えましたが、分家の小山田衛門佐家(右衛門佐家)が継承したと言う事になります。

 のち塩山の向嶽寺文書によると、小山田信長(小山田耕雲)が、向嶽寺の寺領であった都留郡田原郷を横領したとあり、1499年に武田信縄と油川信恵が和睦すると、1499年9月24日に小山田信長は横領した領地を向嶽寺に返還したとあります。

 →向嶽寺~山梨・塩山と抜隊得勝~松姫も八王子に逃れる際に滞在

 小山田信長の姉妹は武田信昌に嫁いでおり、油川信恵・岩手縄美兄弟の生母となります。
 そして、小山田信長の子と考えられる小山田弥太郎は、武田家の家督争いで油川信恵・岩手縄美に協力し、あの武田信虎と敵対することになったのです。

 武田信虎は僅か15歳ながらも、戦の天才であり、1508年10月4日、油川信恵・岩手縄美らが討死します。
 小山田弥太郎は報復のため武田信虎を攻めますが、12月5日の合戦で討死し、郡内小山田の一門である境小山田氏の小山田平三(小山田弾正)が、伊豆の韮山城主・伊勢宗瑞(北条早雲)を頼って逃亡したとされます。

 小山田弥太郎のあとは、小山田越中守信有が当主となりました。

 1509年、武田信虎は小山田氏討伐のため、郡内へ侵攻しますが、翌1510年春に小山田信有は武田信虎と和睦し、武田信虎の妹(又は娘)を正室に迎えて、武田信虎に臣従しました。
 以来、郡内・小山田家では小山田弥三郎信有、小山田出羽守信有と三代当主が同じ名前の「信有」を継承していますので、調べる際には混同しないよう注意が必要で、非常に難しいです。

 その後、武田信虎は西郡の国衆・大井家と合戦し、1515年10月17日には小山田一族の小山田大和守が討死しています。
 また、1516年には駿河の今川氏親が、山中湖・籠坂峠を越えて郡内へ侵攻しましたが、小山田氏は撃退しています。

 小山田越中守信有は、勝山記によると、1520年に猿橋を架替えています。
 また、猿橋が1533年に焼失すると、1540年に再び猿橋を再建するなど、領内の整備にも力を注ぎました。

 →大月にある猿橋【桂川の渓谷に掛かる日本三奇橋】

 武田信虎は、北条家と敵対する扇谷・上杉朝興を支援する姿勢を示したため、1530年1月7日には、小田原城主・北条氏綱が侵攻し、猿橋付近で小山田越中守信有が対陣。
 北条勢が郡内に再侵攻した際に、小山田氏は不在だったようで、3月に中津森館が焼失します。
 そして、単独にて反撃した小山田越中守信有は、1530年4月23日に、矢坪坂の戦い(上野原市大野)で、北条氏綱を撃退しました。
 この時、北条家との合戦で負けたとの説もありますが、郡内は以降も小山田氏が統治していますので、小生は小山田氏が勝利したと考えています。

 小山田越中守信有は、焼失した中津森館を放棄し、本拠を谷村館へと移して城下町を整備し、武田家の一門衆として重用された小山田越中守信有の子・小山田出羽守信有は、1533年、甲府・躑躅ヶ崎館付近に屋敷を与えられました。

 →勝山城と谷村城(谷村館)の訪問記はこちら

 1540年、小山田出羽守信有の子・小山田弥三郎信有(小山田信茂)が誕生しますが、この年、武田晴信が父・武田信虎を追放し家督を継承します。のちの武田信玄ですね。
 1541年に、小山田出羽守信有の父・小山田越中守信有、また兄・小山田虎親も相次いで死去したため、小山田出羽守信有が家督を継ぎました。

 こうして、小山田出羽守信有は武田の親族衆として活躍し、1547年8月の佐久侵攻では、落城した志賀城主・笠原清繁の夫人を買い取って、側室(又は妾)とし駒橋に住まわせたと言います。

 →志賀城主・笠原清繁夫人の墓【大月市・宝林寺】悲劇の女性と小山田出羽守信有

 なお、1550年10月1日、砥石城攻めの砥石崩れでは、村上義清勢の追撃を受け、小山田出羽守信有は負傷しています。
 翌1551年、小山田出羽守信有は病床にあり、嫡男の小山田弥三郎信有(小山田信茂の兄)が、小山田勢を率いて出陣しました。
 小山田出羽守信有が、1552年1月23日死去すると、小山田弥三郎信有(小山田信茂の兄)が家督を継ぎ、1554年12月に、武田晴信の娘(黄梅院)が北条氏康の嫡男・北条氏政に輿入れする際に、蟇目役(ひきめやく)を務めています。
 なお、この時期の小山田氏家老に小林和泉守と言う武将が認められます。

 →北条氏からも知行?していた小山田氏のなぞに迫る

 1565年8月20日に小山田弥三郎信有(小山田信茂の兄)は享年26にて病死したとされます。

 そして、弟の小山田弥五郎(小山田信茂)が家督を継ぎました。
 小山田弥五郎(小山田信茂)は1566年1月16日に、鶴瀬(甲州市大和町)の佐藤与五左衛門に過所を発給したのが文書の初見です。

 1569年の小田原城包囲の際、小山田勢は武田本隊とは別に小仏峠から八王子へ奇襲侵攻し、廿里の戦いにて北条氏照勢と戦いました。
 しかし、その後の三増峠の戦いには名が見られないため、滝山城攻めをしたあとは、郡内に帰国したものと推測されています。

廿里の戦い(とどりのたたかい)~小山田衆と滝山衆が高尾で行った合戦

 なお、小山田弾正家と言う分家の方では小山田有誠と言う武将がおり、1571年、駿河・深沢城に派遣され、深沢城代・駒井昌直からの指揮を受けています。

 →深沢城の戦いと北条家【深沢城の訪問記】

 1572年10月、武田信玄による西上作戦では、三方が原の戦いなどで小山田信茂が先陣を務め、有名な小山田の投石部隊を用いたとされています。
 ただし、最近の研究では、投石部隊は小山田氏だけと言う事ではなく、武田勢として部隊があったようだと言う話もあります。
 いずれにせよ、武田軍最強とも言われた小山田信茂の赤備え部隊は、徳川勢を震え上げさせ、のち徳川家康が手本とし、井伊直政の赤備えへと継承されるのです。

 →三方ヶ原の戦いと一言坂の戦い

 武田信玄が伊那郡駒場で死去し、武田勝頼があとを継ぐと、小山田信茂は長篠城攻め、足助城攻めにも参陣。
 そして、1575年の長篠の戦いでは、馬場信春内藤昌秀山県昌景、原昌胤らと共に武田勝頼に撤退を進言したとされます。

 →長篠の戦い(設楽原の戦い)考察と訪問記

 上杉景勝との甲越同盟では、跡部勝資・長坂光堅とともに小山田信茂も取次を担当し、直江兼続らと交渉しました。

武田滅亡と小山田氏の静粛

 1582年、織田信長はついに甲斐への侵攻を開始します。
 小山田備中守家である石田小山田氏・小山田虎満の子である小山田昌成(小山田備中守昌行)は、高遠城主・仁科盛信の副将として高遠城に入り、仁科盛信や弟・小山田大学助と共に討死しています。
 そして、家臣の離反が相次いだ武田勝頼は、新府城を放棄して岩殿城を目指します。

 →岩殿城山~小山田信茂の難攻不落の山城

 この辺り、2016年の大河ドラマ「真田丸」の最初の頃に触れられると思いますが、先に郡内に戻り、受け入れ準備をしているはずの小山田信茂は、武田を見限り、笹子峠から武田勝頼に矢を掛けたともされます。
 小山田信茂の謀反を悟った武田勝頼は、甲斐大和から田野へと逃れますが、滝川一益の軍勢に追いつかれて戦い、滅亡しました(天目山の戦い)。
 その後、織田信忠がいる甲斐・善光寺へと赴いた小山田信茂ら一族ですが、切腹処分となり、小山田氏も滅びました。
 武田と小山田の滅亡に関しては、下記にて詳しく記載していますのでここでは省略させて頂きます。

 →武田氏滅亡と武田勝頼・天目山の戦いと小山田氏滅亡
 →小山田信茂(小山田藤乙丸)~(1545年?~1582年)郡内の実力者

 鎌倉時代から郡内を、度々の戦火にも拘わらず400年近く守り通した小山田家です。
 小山田信茂としては、恐らく小山田家は武田家臣ではなく、郡内の領主で小大名として武田家との同盟により、武田勝頼にも従っていたと言う考えがあったのだと思います。武田家から領地を与えられていた訳ではないですからね。
 特に、1518年5月に武田信虎が今川氏親と一時和睦しますが、その時、小山田越中守信有は、武田家とは別に今川氏親と別途和睦しています。
 このように小山田家は武田の中でも独立性が高く、小山田信茂は、単に武田との同盟を破棄しただけと考えていたのではと推測致しております。
 織田信忠に武田家臣としてではなく、独立勢力(小大名)として嫡男を人質として差し出すために、小山田信茂は甲府善光寺へと挨拶に出向いたのではないでしょうか?

 しかし、もやは強大な勢力で多くの家臣を持つようになった織田家側から見た感覚としては、小山田氏くらいの勢力は柴田勝家など織田家家臣よりも弱小であり、単なる武田の家臣としか見れなかったのだと思います。
 よって、最後に主君・武田勝頼を裏切ったのは、家臣としてはあるまじき行為であるとされ、小山田氏の一族は打首となり、小山田信茂としては「そんなはずではない」と、最大の「誤算」が生じたのだと存じます。

 そのような意味では、小山田信茂が武田勝頼を裏切ったとするのも、穴山信君(穴山梅雪)のように、小大名としての「生き残る為」でしたが、結果「裏切り」のレッテルを張られて切腹となったため、何度も裏切るも生き残った真田昌幸と対照的な印象になってしまっているものと考えます。
 歴史に「もし」は禁物ですが、もし、小山田信茂が織田信忠に挨拶するようなことをせず、徳川家や北条家に臣従する形を取っていれば、もしかしたら、小山田氏は静粛されず、真田家同様に戦国の世を生き延びたかも知れません。

 甲斐善光寺で織田信忠と小山田信茂の間で、どのようなやり取りとなったのか?
 今となっては知る由はありませんが、非常に気になる所です。
 このように、小山田氏は、他にも滅んだ武家と同様に、文献などが乏しく、まだまだ良く分かっていな部分が多いですが、時代劇ドラマにすると、結構、奥が深くておもしろそうだと思う次第です。
 詳しく分からない方が、想像を膨らませた脚本になり、その方が「おもしろく」制作できると言うこともありますしね。

 →千鳥姫の稚児落し伝承【小山田信茂の側室】岩殿山城
 →神の川に身を投じた折花姫・相模原のお姫様伝説(小山田一族の悲話)
 →小山田行村の墓(小山田八左衛門行村の墓)~郡内・小山田氏一族
 →小山田信茂の首塚と小山田左兵衛尉信茂顕彰の碑【初狩・瑞龍庵跡】

その後の小山田一族は?

 なお、武田一族も一部が生き残ったように、小山田一族もその後、名が見受けられます。

 小山田弾正家である小山田有誠の子・小山田茂誠が真田昌幸に仕え、松代藩主・真田信之の家臣には小山田一族が見受けられます。
 また、真田昌幸の家臣には、小山田十郎兵衛なる武将も加わったようですが、武田滅亡後は、北条氏政の家臣となっていたようです。
 小山田多門家は、小山田貞政(小山田将監)が、武田滅亡後に北条家に仕えて、北条滅亡後には越前松平家に仕官しています。その系統は会津・松平家、米沢・上杉家の家臣となりました。

 ※参考にさせて頂いたサイトさんを直接リンクして紹介させて頂いていた方法ですが、一部の方に誤解を招くとのご指摘を賜りました。そのご意見を尊重し、参考先の表記と直接リンクを削除致しております。

 以上、いつもながら、つまらない文章にお付き合い賜りまして、深く御礼申し上げます。
 小山田氏のキーワードが出てくる記事の数を調べて見ましたら、このサイトを含む当方の関連サイトだけで約100記事ございます。
 このサイトにて特に小山田氏を取り上げた記事ですと、約30に絞れますので、もしよろしければ、暇なときにでもご覧頂けますと幸いです。

 →小山田氏の関連記事約30

スポンサーリンク

関連記事

コメント

  • トラックバックは利用できません。

  • コメント (4)

    • 播磨屋
    • 2016年 3月 06日

    拝読しました。
    小山田氏が網羅的に書かれた素晴らしい内容ですね。
    系図の出典を表記していただければと存じます。

    • 高田哲也
    • 2016年 3月 06日

    播磨屋さま、コメントを賜りまして、誠にありがとうございます。
    出典は下記にまとめて掲載させて頂いております。
    http://senjp.com/shutten/
    小山田氏に関しては、15年前くらいに調べた記憶からですので、定かではありませんが、系図に関しては大月市史と町田市史を参考にしたような気が?致します。
    不明瞭でお詫び申し上げます。

    • おぜ
    • 2016年 3月 07日

    初めまして。失礼いたします。

    武田晴信が油川の娘を側室にしたのは、信虎と信由の騒乱以来の
    武田本家と油川の争いを終結させるための、小山田家の骨折りの
    成果ではないかという勝手な夢を見て以来、小山田の歴史を勉強
    しようとウロウロしていた者です。

    このような素晴らしい場が存在していることを初めて知りました。
    こちらの記述を拝読し、今後少しずつ学習させていただきたいと
    思っていますので、よろしくお願いたします。

    • 高田哲也
    • 2016年 3月 07日

    おぜさま、この度はコメントを賜りまして、誠にありがとうございます。
    お恥ずかしい内容でございますが、少しでもご参考になれば幸いです。

 スポンサーリンク

気になる戦国女性

  1. 常高院(じょうこういん)・浅井初(お初、於初)は、1570年に小谷城にて生まれた。 父は小谷城主・…
  2. 寿桂尼(じゅけいに)は、藤原北家である勧修寺流の中御門家(公家)・権大納言中御門宣胤の娘で、兄に中御…
  3. 千姫(せんひめ)は、徳川秀忠とお江の長女として、1597年4月11日に伏見城内の徳川屋敷で産まれた。…

人気の戦国武将

  1. 三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)は、1572年に武田信玄が3万の軍勢を動員した西上作戦として…
  2. 松山城(まつやまじょう)は、伊予(愛媛)の松山にある標高132m、比高約90mの連郭式平山城で、津山…
  3. 広島城(ひろしまじょう)は1589年に築城された輪郭式平城で、別名は鯉城(りじょう)、在間城(ざいま…

オリジナル戦国グッズ

限定「頒布」開始しました。無くなり次第終了です。
戦国オリジナルバック

 スポンサーリンク
当サイトでは
Android app on Google Play
↑ アプリ版もあります

戦国グッズ通販

実際に鉄板も使用した本物志向「高級」甲冑型の携帯ストラップ
甲冑型ストラップ

甲冑型ストラップ

戦国武将「Tシャツ」や「スウェット」その他もあり。
戦国武将シャツ

戦国浪漫「戦国グッズ」通販

メールでお知らせ

新規記事追加をメールで受信可能。

ページ上部へ戻る