大谷吉継の雄姿~関ヶ原の戦いでも石田三成に加勢


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大谷吉継(大谷刑部少輔吉継、紀之介)の誕生年は1559年1月頃(1558年、1565年7月1日説もあり)とされ、出自には下記の通り諸説ある。

異例とも言える出世をしている事から豊臣秀吉の隠し子説もあるが、子供に恵まれなかった豊臣秀吉に子供がいれば、当然、直系(跡継ぎ)としていたはずで、この可能性は低いと考えられる。
さらに青蓮院門跡防官(坊間)・大谷泰珍(大谷泰増)の子とする説もある。(系図に吉継という名が記されている)
父が大友氏の家臣だった際に誕生したとの説もあるが、大友氏の家臣団に大谷氏の名は見られない。
おなじ近江出身の石田三成が推挙したとの説もある。

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有力説では父は大谷吉房(おおたに よしふさ、大谷盛治)で、観音寺城主・六角義賢の家臣から浅井家家臣、浅井家滅亡後は織田信長、ないし木下藤吉郎に仕えたものと推定されている。
この大谷氏は、近江国の小谷(おおたに)、現在の滋賀県長浜市余呉町小谷に、代々居住していることから、大谷吉継も近江で生まれた推定されている。
母は東殿(ひかし)と言い、豊臣秀吉の正室・ねね(おね北政所、高台院)の侍女であったとされる。

幼名は慶松(桂松)、若いころは「紀之介」と呼ばれたようで、どのような経緯でいつからかは全く不明だが、羽柴秀吉の小姓として仕えた。
1574年の春、長浜城を築いた際、新しく羽柴秀吉が雇った700名の中の1人が大谷吉継だったのではとの説も有力だ。
石田三成と大谷吉継とは1歳違い。推測するに、羽柴秀吉も長浜城主となり、一人前の城主として小姓を付ける際、近江にいた石田三成のように優れた若者だと見抜いて側近にしたのであろう。

初めて、記録として大谷吉継の名が見られるのは1577年10月、羽柴秀吉が播磨攻略で、黒田官兵衛から提供された姫路城時代の家臣団として、福島正則加藤清正仙石秀久脇坂安治、一柳直末らと共に、羽柴秀吉の御馬廻り衆(馬廻衆)の1人として大谷平馬の名が見られる。
馬廻衆と言うのは、大将の側近として事務・伝達などの職務に当たり、合戦時には精鋭として常に大将の馬の周囲(廻り)にいて直衛し、時には伝令や、切迫時には決戦兵力として活躍していた者の事を言う。

1578年5月4日、毛利輝元が尼子勝久の上月城を包囲した際の、羽柴秀吉救援軍として大谷吉継も従軍している。
1578年からの三木城攻めにおいても馬廻衆として参戦し、10月15日に平井山で開かれた羽柴秀吉の陣中での宴にも大谷平馬の名が見られる他、1582年4月27日の備中高松城への水攻め時にも、大谷吉継は羽柴秀吉の馬廻衆として従軍したようだ。

1581年、嫡男・大谷吉勝が誕生しているが、大谷吉継の妻(正室、側室)の名前などは一切不明である。

本能寺の変で、織田信長が亡くなると、羽柴秀吉と柴田勝家が対立。大谷吉継は羽柴秀吉の美濃侵攻にも馬廻衆として従軍。
賤ヶ岳の戦いの前年、大谷吉継は長浜城主・柴田勝豊を調略・内応させ、城ごと羽柴勢に加えさせた。
賤ヶ岳の戦いでも先懸衆として石田三成らと共に活躍し、七本槍に匹敵する三振の太刀を賜ったとされる。
賤ヶ岳の戦いの直前である、美濃大返しの1583年4月16日、大谷吉継(25歳位)が吉村又吉郎へ合力を求める文書も残っており、大谷吉継は今尾城の開城に立ち会い、賤ヶ岳の戦いには参加できていないとする説もある。
以降、羽柴秀吉は、主に調略などの官吏面で大谷吉継を使い、1583年12月23日には、西堂・称名寺へ寺領安堵書状に「大谷紀之介」の名で発給している。

1585年の紀州攻めでは増田長盛と共に2000の兵を指揮。最後まで抵抗を続ける紀州勢の杉本荒法師を槍で一突きにして討ち取った武功が「根来寺焼討太田責細記」に記載されている。
伊勢長島城に移った織田信雄の祝いに、羽柴秀吉が赴いた際に同行。

1585年7月11日、羽柴秀吉が近衛前久の猶子となって従一位・関白に叙任したのを受け、大谷吉継は従五位下・刑部少輔(ぎょうぶのしょう、ぎょうぶのしょうゆう)に叙任。以降、大谷吉継は「ぎょうぶ」と呼ばれる事が多くなり、この頃から、本来違い鷹の羽であった家紋を対い蝶に変更した模様だ。
1585年9月14日には、羽柴秀吉の有馬温泉湯治に石田三成らと共に随行。

1586年の九州征伐で、大谷吉継は石田三成の傘下で兵站奉行を担当し功績を立てた。石田三成が堺奉行を兼務すると、その補佐として実務を担当。
毛利輝元の日記には、1588年に毛利輝元が上洛した際、世話になったり挨拶周りをした豊臣家の諸大名の名と、献上品などが細かく記されており、石田三成、増田長盛らの下位に大谷吉継の名も見られ、この時点では奉行格になっていたことが伺える。

この頃には、既にハンセン病(異説では梅毒)に侵されていたようで、1586年、大坂で千人斬りという辻斬り騒動が起こると、大谷吉継(27歳位)が病気治癒のため、血を求めて千人切りを行っているという噂が立つ。
しかし、豊臣秀吉から大谷吉継への信頼が揺るぐことは無かった。
1587年、大坂城で開かれた茶会において、招かれた豊臣諸将は茶碗に入った茶を1口ずつ飲んで次の者へ回していった。
しかし、大谷吉継が口をつけた茶碗は誰もが嫌い、後の者達は病気の感染を恐れて飲むふりをするだけであったが、石田三成だけ普段と変わりなくその茶を飲み干した。
一説には大谷吉継が飲む際に顔から膿(鼻水とも?)が茶碗に落ち、周りの者達はさらにその茶を飲むのをためらったとされるが、石田三成だけはその膿ごと茶を飲み干し、おいしいので全部飲んでしまったからもう一杯茶を注いでほしいと気を利かせたともされる。
その事に感激した大谷吉継が、のちの関ヶ原において石田三成を裏切ることなく戦ったとする。ただし、この逸話は豊臣秀吉との話であったという説もあり、豊臣秀吉は「大谷紀之介(大谷吉継)に100万の軍勢を与えて、自由に軍配を指揮させてみたい」と語ったと伝わる。

1587年の九州征伐にも、当然従軍し、各地にて大谷吉継が発給した文書が現存している。
1588年、後陽成天皇の聚楽第行幸にも列席。

1589年9月25日、越前国の敦賀郡・南条郡・今立郡の20000石(50000石、57000石とも?)を与えられ、大谷吉継(31歳位)は敦賀城主となった。
更に蔵入地10万石を代官地として預けられ、11月には小田原征伐の準備として、豊臣秀吉の使者として徳川家康を訪れている。

1590年、豊臣秀吉の小田原攻め(小田原征伐)にも従軍すると、大将・石田三成の軍勢を補佐し、館林城攻め、忍城攻めに参加している。
小田原城主・北条氏直の降伏後は、奥州仕置に参加し、上杉景勝前田利家と出羽大宝寺・庄内三郡の太閤検地を行っている。
1590年の暮れ、加増され57000石となる。

1592年、朝鮮出兵では船奉行・軍監として船舶の調達、物資輸送の手配などを大谷吉継も務めた。
その後、奉行衆の1人として長谷川秀一・前野長康・木村重茲・加藤光泰・石田三成・増田長盛らと共に、1200を率いて朝鮮に渡海。
特に大谷吉継・石田三成・増田長盛の3人は、豊臣秀吉の指令を受けて、朝鮮にて諸将の指導にあたると共に、現地の戦況報告などを担当した。
大谷吉継の母である東殿が、京都の吉田神社の神主である吉田兼見に、大谷吉継の戦勝祈祷を頼んでいる。

1593年5月23日、九州の名護屋城で豊臣秀吉と明使との面会を果たすのにも貢献。その後、再度朝鮮へ渡海している。
その後は、病状が悪化し治療に専念したようで、1594年に伏見城の普請に着くもの、約5年程、表舞台から名が消えており、豊臣秀吉主催の花見なども欠席している。

1594年前後、大谷吉継は草津温泉にて湯治しており、直江兼続に宛てた書状では、目の病のため、花押ではなく印判を用いたことを詫びている。
この頃、大谷吉継の娘、又は妹とである女性が、真田信繁(真田幸村)の正室になっている。草津温泉湯治も、草津温泉の地を所領としていた真田氏から勧められたものと推測できる。

1597年9月24日、豊臣秀吉は、徳川家康や富田知信、織田有楽斎織田長益らを従えて、伏見の大谷家屋敷を訪問し、大谷吉継を見舞っている。このとき大谷吉継の養子・大覚介が接待。豪勢な饗宴で出迎え、豊臣秀吉・豊臣秀頼、そして北政所や淀殿などに60000石の身とは思えぬ過分な献上品をしたとある。
1598年6月16日、豊臣秀頼の中納言叙任の祝いには病をおして参列し、豊臣秀吉から菓子を賜った。この年、太閤検地により約3000石加増。
8月18日、豊臣秀吉が亡くなると、形見分けとして「鐘切りの刀」を大谷吉継の長男・大谷吉治(17歳)が受け取った。
大谷吉継は隠居も考えていたようだが、長男もまだ若かったせいか、大谷吉継は天下の情勢を見極めて徳川家康に接近。
この頃、病状は安定したようで、1599年、徳川家康と前田利家の仲が険悪となり、徳川邸襲撃の噂がたつと、加藤清正や福島正則ら豊臣氏の武断派諸将らのように、大谷吉継も徳川邸に参じ徳川家康を警護している。

徳川家康の命令で失脚していた石田三成の内衆と共に越前表に出兵し、前田利長らによる「家康暗殺計画」の噂による混乱を抑え、徳川家康の家臣・榊原康政と共に宇喜多家中の紛争調停に尽力した。

関ヶ原の戦い

1600年、徳川家康は会津の上杉景勝に謀反の嫌疑があると主張し、上方の兵を率い上杉討伐軍を発する。
徳川家康とも懇意であった大谷吉継(42歳位)は、所領地である敦賀や、自らが代官を務める蔵入地から兵を集め、3000(1000とも?)を率いて討伐軍に参加するべく出立した。

途中、徳川勢に合流すべく、7月2日美濃国の垂井に差し掛かった際、失脚していた石田三成が遣わした使者・樫原彦右衛門が訪問し佐和山城へ招待された。
他の説では、大谷吉継から石田三成に使者を出し、徳川家康との和睦のため石田三成自身か、子の石田重家が大谷勢に加わる形で、上杉征伐への同行をすすめたが、埒が明かず、大谷吉継自ら佐和山城へ向かい、平塚為広らと石田三成を説得したとも。
しかし、親友の石田三成からは、徳川家康に対して「挙兵」すると言う重大決意を明かされる。
これに対して大谷吉継は、3度にわたって、徳川家康に勝つ見込みの薄いことや、石田三成の人望のなさを指摘し「無謀であり、三成に勝機なし」と説得するも叶わず、いったん7月7日に自分の陣に帰った。
垂井の宿で3~4日考え抜いた大谷吉継は、石田三成の固い決意と熱意に答え、やるからには勝利をもたらそうと判断し、7月11日に佐和山城に入り、平塚為広や、大谷吉勝・木下頼継ら息子達と共に石田三成に協力し西軍に加わった。
この時、すでに大谷吉継は盲目であったのをもちろん承知で、石田三成は喜んで、家臣の島左近、蒲生備中らを紹介したとされ、7月12日には大谷吉継、石田三成、増田長盛、安国寺恵瓊と作戦会議を行っている。

大谷吉継は大坂にいた真田昌幸の正室を預かり、大谷家は一族挙げて西軍につき、大谷吉継の母・東殿局は、高台院(北政所)の代理として、宇喜多秀家が行った西軍出陣式に出席。

西軍首脳の1人となった大谷吉継は、軍勢を戻し、7月14日に敦賀城に帰還。
すぐさま、7東軍の前田利長を牽制するため越前・加賀における諸大名の調略を開始。
その結果、丹羽長重や山口宗永、上田重安らの諸大名を東軍に取り込むことに成功した。
7月26日に前田利長が25000の大軍を率いて南下開始すると、大谷吉継は「海路にて加賀へ派兵した」との偽情報を流して、前田利長を動揺させ、前田勢が撤退するところを8月3日丹羽長重に攻撃させた。
この結果、25000の前田利長は関ヶ原の決戦に間に合っておらず、西軍にとっては隠れた大きな勝利であり、大谷吉継の戦術が優れていることを物語っている。

8月5日付の石田三成の書状によると、北国口の抑えとして30人の大将に大谷吉継の名がある。

8月23日、徳川家康勢が岐阜城を攻略。
石田三成より出兵要請が入り、9月2日(又は3日)に脇坂安治、朽木元綱小川祐忠戸田勝成赤座直保らの諸将を率いて美濃国に進出し、9月15日、関ヶ原の戦いになった。

関ケ原合戦の前日、同行が怪しい小早川秀秋の陣に赴き、裏切らないように促したが、疑念を感じ、小早川隊の松尾山の北方・藤川台に布陣。

この時すでに、小早川秀秋は、黒田官兵衛の調略を受けていたと考えられ、黒田長政の家臣・大久保猪之助もかねてより小早川秀秋の陣に監視役でいたようだ。
石田三成は深夜に松尾山を訪れて「豊臣秀頼が15歳になるまで秀秋の関白の地位を保証する」といった内容の起請文を発行し、裏切り防止に最大限の配慮もしている。

大谷吉継は精鋭600を率いて、大谷吉勝(2500)・木下頼継(1000人)ら大谷一族、戸田勝成(540人)、平塚為広(360人)と、合わせて5700で布陣した。
陣中には織田信長の子・織田信吉(500人)、織田長次、蜂須賀家政の家老・高木法斎らも加わった。
20万石の小西行長でさえ兵力4000のところ、6万石の大谷家は3100と、かなり無理した動員数なので、その戦いにすべてを掛けたと言っても過言ではないだろう。

大谷吉継は病気で崩れた顔を隠すため、浅葱色(あさぎいろ)の絹の布を綿帽子のようにスッポリかぶり、練り絹の上に群れ飛ぶ蝶を漆黒で描いた直垂を着用し「輿」に乗って、自らの軍を指揮。
午前中は寺沢広高隊を蹴散らし、宇喜多勢の救済をしようとするが、それを阻止しようとした東軍の藤堂高虎(2500)、京極高知(3000)と奮戦。
藤堂隊・京極隊を引き付け、戸田隊・平塚隊が藤堂隊・京極隊の側面から背後に回り込み、巧みに攻撃した。

石田三成は、開戦から2時間を過ぎたころ、まだ参戦していない武将に戦いに加わるように促す狼煙を打ち上げ、島津隊に八十島助左衛門を使いに出し応援要請した。
西軍は総兵力のうち、戦闘を行っているのは、宇喜多、石田、小西、大谷の33000ほどであったが、戦局をやや優位に運んでいた。
この間、大谷吉継もまだ動かない小早川秀秋に使者を送り、東軍へ攻撃を開始するよう促したが、動きは見られないままだった。
関ヶ原での陣形図は、関ヶ原歴史民俗資料館が公開している内容を参考にしていただきたい。

島津は応援要請を拒否し、正午頃、東軍による威嚇射撃を合図に松尾山に布陣していた小早川秀秋15000が東軍に寝返り、大谷勢を攻撃。小早川勢で一手の大将を務めていた松野重元は主君の離反に納得できなかった為、無断で撤退している。
大谷吉継は、小早川秀秋の裏切りに備えて温存していた直属600で迎撃。
更に前線から引き返させた戸田勝成・平塚為広と合力し、不利な兵力ながらも小早川隊を500メートル押し戻し、2~3回と繰り返して、追い返し、小早川勢は370が戦死、大谷勢も180の死傷者が出た。
その激戦ぶりは東軍から小早川勢の「監視役」として派遣され、本来なら安全な場所にいたはずの奥平貞治も重傷を負った(後に死亡)ことからも伺える。

大谷勢の戦いぶりは目覚しく、遠くから見ていた島津勢の曽木弥次郎は「比類なき様子に候つ」と語った記録が残っている。

しかし、同じく小早川秀秋の裏切りに備えて配置していた脇坂安治990、朽木元綱600、赤座直保600、小川祐忠2100の4隊4200が、東軍に寝返った。
さすがに、これは想定外であり、大谷勢は前から東軍、側面から脇坂・赤座・小川・朽木の4隊、背後から小早川と、合計20000近くの敵兵により包囲・猛攻を受けた。
藤堂高虎勢には島清正(島左近の4男)が躍り出て、藤堂玄蕃と一騎打ちし斬ったが、藤堂玄蕃の従者・高木平三郎に討ち取られる。

戸田勝成は、織田有楽斎の長男・織田長孝勢と応戦するも、織田長孝の槍を頭部に受けて討死。子の戸田内記も討たれた。
平塚為広も孤軍奮闘したが、小川祐忠の家臣・小川勘助の隊下の樫井太兵衛に討たれた、平塚勢に加わっていた、織田長次も戦死。織田信吉は戦線離脱に成功し、戦後に改易。京で静かに暮らした。

大谷吉継は目が見えない為、湯浅五助に「負けになったら申せ」と、合戦中、再三「負けか」と聞いていた。だが、湯浅五助は「未だ」と返し続けていた。
父・大谷吉継が危うしと知り、大谷吉勝と木下頼継は救援に向かうおうと部隊を後退させる指示を出したが、混戦の中、配下の兵は撤退と勘違いし、そこを崩されて崩壊。

大谷勢は大谷吉継の子である大谷吉勝や木下頼継らの少数が防戦するのみとなり、ほぼ壊滅。
敗戦が明らかになると湯浅五助は「御合戦御負け」と言い、大谷吉継は「輿」から体を半分出して自ら脇差で腹を突き、湯浅五助に介錯させ自刃。享年42。
子である大谷吉勝・木下頼継も自害しようとしたが、家臣に諫められ、それぞれ遁走。
大谷吉勝(大谷吉治)は敦賀に落ち延び、その後は各地を流浪。大坂の陣では大坂城に入城し、豊臣方から兵100の隊長に任命されるが、天王寺・岡山の戦いの決戦で真田信繁(真田幸村)隊の前線で戦い、松平忠直軍との戦闘で討死。
大谷吉継の次男・木下頼継は越前国へ潜伏するも、すくに病死。(享年15歳)

大谷吉継の敗北が西軍に伝わると、西軍の諸隊は動揺し、西軍潰走の端緒となった。
蜂須賀家政の家老・高木法斎は、関ヶ原後、蜂須賀家から追放されて、蜂須賀家は存続を図っている。

自害した大谷吉継の首は側近である湯浅五助(湯浅隆貞)により関ヶ原に埋められ、発見されることはなかったとされる。湯浅五助は藤堂高虎勢に突撃し討死。
異説では切腹した大谷吉継の首を、湯浅隆貞の家臣・三浦喜太夫が袋に包んで大谷吉継の甥の従軍僧・祐玄に持たせて戦場から脱出させ、三浦喜太夫は追腹を切り、祐玄は米原の地に、大谷吉継の首を埋めたと言われ、首塚も建てられている。
大谷吉継の居城・敦賀城は家臣・蜂谷将監が東軍に引き渡しを行った。

智勇兼備・人望も厚かった名将と言えども、治る見込みのない重い病気で、明日をも知れる命。
どうせ、いつか命果てるならと、豊臣再興と、恩義を大切にし、いつまでもまっすぐな古くからの親友でもある「石田三成」と共に、大谷吉継も石田三成に劣らない忠義を全うし、最後の大舞台として勝利をもたらそうとしたのであったと感じる。
西軍の1万石以上の大名で、関ヶ原の戦いの地にて死を選んだのは、秀吉の懐刀と呼ばれた大谷吉継ただ1人だけである。

■大谷吉継の私的評価

最初に記載しておくが、小生は大谷吉継が嫌いな訳ではない。むしろ、最後には天下取りを狙う徳川家康を裏切り、忠義を貫く石田三成を助けたと言う事もあり、逆に惹かれる部分もある。
しかし、石田三成19万石に対して、大谷吉継は6万石。関ヶ原で西軍だった諸大名を見ると下記の通り。

毛利輝元120万石、毛利秀元20万石、吉川広家12万石、上杉景勝120万石、佐竹義宣54万石、石田三成19万石、 宇喜多秀家57万石、小西行長20万石、安国寺恵瓊6万石、 増田長盛20万石、長束正家5万石、小川祐忠7万石、赤座直保2万石、長宗我部盛親22万石、真田昌幸3万石、立花宗茂13万石、織田秀信13万石、丹羽長重12万石、小早川秀包13万石、小早川秀秋36万石。

このとおり、大谷吉継は決して禄高が高いとは言えず、それまでの豊臣家での貢献度としても、同じく近江出身で東軍に寝返った小川祐忠よりも格下で、長束正家並と言える。
増田長盛はそんなに有名な武将ではないが石田三成と共に豊臣政権で中心的な役割を果たしており、その貢献度からか、石田三成とほぼ同じ20万石だと言う事を考えると、豊臣秀吉からの評価は高いとは一概に言えない。
要するに、決して大きな戦功や実績を上げているとは言いにくい。
もちろん、戦国時代に下級武士から2万石、1万石になるだけでも、それはとても、とても、とても「スゴイ」ことで、並大抵の人物では不可能なので、豊臣秀吉を支えた優秀な武将の1人であることは確かだ。
 
それなのに、映画や時代劇ドラマなどに、度々出演もする 大谷吉継 は、悲運な運命を辿った石田三成に協力し、病気の顔を布で隠し、立つこともできず目が見えない状態にもかかわらず、軍を指揮し小早川秀秋らの裏切りがあり、関ヶ原で散ったと言う話が、かなり特異なもので、石田三成の話には欠かせない人物であることから、大谷吉継の生き様じたいの人気が高いのだろうと推測する。

大谷吉継の首塚

今回、近江出張に伴い、米原にある大谷吉継の首塚へもお参り致しました。

1600年、関ヶ原の戦いの際、小早川秀秋の裏切りにより、西軍の敗北を悟った大谷吉継は「病み崩れた醜い顔を敵に晒すな」と、家臣の湯浅五助の介錯にて自刃します。
この時、甥である僧の祐玄が、大谷吉継の首を錦の袋に入れて、敦賀へ逃れる際に、米原のこの地に埋め隠したとされています。

畑の真ん中にポツンと祠がありますが、地元の方が大切に守っておられるようです。
※各写真はクリックすると拡大します。

一石五輪塔(いっせきごりんとう)が祠に収められています。

石田三成との友情を最後まで大切にし、病んだ身であるにも関わらず、輿にて指揮・奮戦した「名将ここに眠る」と言う事で丁重にお参りさせて頂きました。
感無量になり、目が潤んだのは言うまでもありません。


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関ケ原町と旧春日村の境には、湯浅五助が首を埋めたとされる、別の大谷吉継の墓があります。
大谷吉継の史跡巡りは、とにかく「浪漫」を感じます。
平塚為広、戸田重政のように大谷家の家臣になってみたかったと、今回ふと感じました。
ずっと暖冬にも関わらず、訪れた日は極寒であった米原ですが、大谷吉継の史跡もなるべく早く走破したいと決心した次第です。

下記の地図ポイント地点が大谷吉継の首塚がある場所です。
米原駅から約800m(徒歩10分)と徒歩圏内でもあります。

上記地図の大谷吉継の首塚付近には駐車場はありません。
農作業されている方もおらず、1分程度の駐車は大丈夫と判断して、道路に車を止めたまま写真を撮り、速やかに撤収致しましたが、地元の方にご迷惑をお掛けしないよう訪問したいところです。
大きい車の場合などは、南側にある下多良神社の南道路付近の駐車スペース?に短時間止めると良いかも?知れませんが、自己責任にてお願い申し上げます。

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