真田幸村とは 【真田信繁の生涯】 詳細版~徳川家に徹底対抗する人生を全うした名将

yukimura

スポンサーリンク
スポンサーリンク

 真田幸村(真田信繁)とは?どのような人物だったのか?
 真田幸村は1567年に武藤喜兵衛昌幸(のちの真田昌幸)の2男として甲府で生まれた。すなわち、出身地は甲府であり、真田幸隆の孫にあたる。幼名は真田弁丸。のち真田源次郎。
 母は、武藤喜兵衛の正室・山手殿と考えられるが、別の説では1570年2月2日誕生。
 江戸時代に松代藩95000石の大名となる兄・武藤源三郎(のちの真田信之)は1566年3月に誕生している。

 なお、真田幸村(さなだ-ゆきむら)と言う名を記載した史料は見つかっていない。
 「幸村」は江戸時代に書かれた書物による通称であり、正しい名前は真田信繁(さなだ-のぶしげ)であるが、このページでは「真田幸村」として明記させて頂く。
 信繁と言う名は、武田信玄の弟・武田信繁を尊敬していた父・武藤喜兵衛昌幸(のちの真田昌幸)が、自分の2男に授けた名であった。

 父・武藤昌幸(真田昌幸)
 母・山手殿
 長男・真田信之(真田信幸)
 二男・真田幸村(真田信繁)

 スポンサーリンク


 この頃、祖父・真田幸隆や武藤昌幸は武田信玄の重臣として活躍していたが、武田信玄が出陣先の伊那駒場で1573年に病没すると、翌年1574年には真田幸隆も亡くなった。
 そして、真田幸村が9歳前後の1575年には長篠の戦い武田勝頼は大敗。
 この時、真田家当主の真田信綱と、その次弟・真田昌輝が討死し、3男だった父・武藤喜兵衛昌幸(武藤昌幸)は、真田家を継ぐことになり、真田昌幸として家督を継いだ。
 こうして真田昌幸と真田幸村(真田信繁)は信州・真田郷に戻ったが、武田勝頼への人質として、母・山手殿と兄・真田信幸(真田信之)らは、甲府に送られていたようだ。
 なお、真田幸村(16歳)は岩櫃城にいたとも考えられている。

 このページは、真田幸村の関する「詳細版」です。
 最後までお読みになられるのにはかなり時間を要しますので、ブックマークやTwitter、Facebookなどでお気に入りなどに登録なさってご覧頂く事をお勧め申し上げます。

武田家の滅亡

 1582年3月に織田信長織田信忠の軍勢により、武田勝頼が敗れた武田攻めの際、山手殿や真田幸村らは、新府城にいたようで、迫る織田勢からなんとか脱出し、岩櫃城を目指した。
 上田から旧領・真田の地を抜けて、鳥居峠を越えようすると、前方から軍勢が迫って来たのを見て、家老・矢沢頼綱や真田信之・真田幸村や、山手殿、矢沢薩摩守の母らは討死や自害を覚悟したと言うが、その軍勢は鎌原幸重や恩田庄兵衛が率いた真田勢の迎えであり、一行は大笹村に宿泊した翌日、無事に岩櫃城へ辿りついた。

 こうして、母・兄とも再会したのだが、主君・武田勝頼は3月11日に討死し武田氏が滅亡(武田滅亡)。
 以後、戦国の厳しい情勢の中、真田家は独自の道を模索する事になる。

 武田家を滅ぼした織田家にやむなく臣従すると、箕輪城に入った織田家の家臣・滝川一益の配下に加わった。
 真田家は、真田昌幸の母(河原隆正の妹)が人質として差し出されていた模様だ。
 しかし、武田家が滅亡した僅か3ヶ月後である1582年6月2日、織田信長が本能寺の変明智光秀により横死する。
 すると、相模の北条氏直北条氏政北条氏邦北条氏照北条氏規ら北条家がすかさず北関東に56000の兵を進めて倉賀野に侵攻。
 まだ上野を支配開始したばかりで、旧武田家臣らを完全に掌握できていなかった滝川一益は、6月19日、神流川の戦いで北条家に敗れると、人質を連れて旧領の伊勢に向けて僅かな供と共に落ち延びて行った。

 父・真田昌幸は独自行動を開始して、6月21日、叔父の矢沢頼綱を沼田城に派遣して奪還。
 また、嫡男・真田信幸(真田信之)は岩櫃城に入ると、17歳ながら軍勢800を率いて、北条家の手に落ちた手子丸城を巧みに攻撃し1日で奪還するなど、早くも能力を発揮。
 このように、真田家は独自勢力を目指して旧武田家臣の取り込みを模索した。

 空白地帯となった甲斐・信濃を巡っては、北条氏直、徳川家康上杉景勝の3者が争う事となり、上杉景勝直江兼続が6月24日に長沼城に入ると、真田昌幸は最初、上杉家に臣従。
 しかし、滝川一益を追った北条勢は碓氷峠を越えて、6月26日に佐久へ入ると、7月9日に一転して真田昌幸は北条家に臣従した。

 北条氏直は川中島で上杉景勝と対峙したが、甲斐に侵攻した徳川家康に対抗するため転進。川中島では松田憲秀と真田昌幸が上杉勢を監視した。
 上杉景勝が、新発田重家に対処する為、8月9日に越後に戻ると、真田昌幸は沼田城に戻っている。

 一方、滝川一益の逃亡に同行させられていた人質は、6月29日小諸城で木曽義昌に預けられ、その後、9月17日に徳川家康に引き渡されるに至る。

 そのような経緯もあり、佐久の諸将は次第に徳川家康に従うようになっており、真田昌幸も、北条氏直に抵抗していた春日城主・依田信蕃を介して9月25日に徳川家に臣従した。
 これが契機となり、若神子で対峙していた北条氏直と徳川家康は和睦し、上野の沼田領は北条家に与えら、真田家には佐久が与えられる事となった。

 しかし、佐久は元々も真田の地元で、沼田は真田家が自ら頑張って獲得した領地であったこともあり、事実上の領地縮小に納得いかない真田昌幸は、翌年1583年からは上田城の改修を始め、沼田領や吾妻領を巡って北条家と争う事になった。

 なお、1583年に北条方の丸子城主・丸子三左衛門を真田昌幸が攻めたが、地元ではこの時が真田幸村の初陣との伝承がある。(下記写真は丸子城)

 丸子城

第一次上田合戦

 1583年8月15日、徳川家康の娘・督姫が北条氏直に嫁ぐなど、徳川家康との関係を強化した北条氏直は、沼田領を明け渡すよう迫ったが真田昌幸は無視。
 このまま徳川家康を頼っていても、いずれは沼田領を失う恐れが強まったことから、2年後の1585年7月、真田昌幸は越後の上杉景勝に臣従することにする。
 7月15日、真田幸村(19歳)は人質となる為、越後の上杉景勝の元に向かった。
 この時、上杉景勝は関白に就任した豊臣秀吉にいち早く臣従していたことから、真田家は上杉家だけでなく、事実上、豊臣家の傘下に入った。

 小牧・長久手の戦いを終えた徳川家康は、北条家との約束を果たすため、1585年7月、沼田領の引き渡しを求め、鳥居元忠大久保忠世平岩親吉ら7000を信濃に派遣。

 徳川勢は甲斐から諏訪道を北国街道に進出し、上田の信濃国分寺付近に陣を構えた。
 これに対して真田の兵力は僅か1200であったとされ、まだ完成していない上田城には真田昌幸700、砥石城には真田信幸(真田信之)300、矢沢城には矢沢頼康200が上杉家からの援軍と共に篭城した。

 7000とも伝わる圧倒的な徳川勢に対して、上田城から200をおとり部隊として、城の手前の神川に配置し城下町のあちこちには柵を交互に置いた。
 1585年閏8月2日、徳川勢が、正面のおとり部隊に攻撃すると、200の部隊は速やかに城に逃げ込み、徳川勢を引き寄せ、城下町に引き入れた。
 そこで、事前に住民を避難させていた城下町に火を放ち、風が強かったこともあり、徳川勢は炎に包囲され、大軍ゆえに柵で身動きが取れない状況に陥った。
 そこを鉄砲隊によって射撃開始し、大混乱に陥った徳川勢には、隠れていた農民兵が襲い掛かり、火災から逃れるように神川へ逃げ込むと、上流で川の堰を切った。
 川が増水すると、徳川勢の兵や馬は流され、そこへ支城などから真田勢は総攻撃を開始。
 徳川の戦死者は1300を超えて、徳川勢は浜松へ撤退した。
 なお、真田側の損害は、最大に見積もっても40名だと言う大勝利を挙げた。

 翌日、徳川勢は丸子城を攻撃するも、ここも落とせず、徳川家康は井伊直政、大須賀康高、松平康重ら5000の救援を派遣し、8月28日に上田より撤退開始した。

 小牧・長久手の戦いでは、豊臣秀吉ですら勝てなかった徳川勢であったが、真田勢は10倍の徳川勢に対して勝利を上げ「徳川敗北」の報は天下に知れ渡り、真田昌幸恐るべしと一目置かれる存在となった。

 この第1次上田城の戦いに連動し1585年9月から1586年5月まで、沼田城にも北条勢が数回に渡って攻撃をしたが、城代・矢沢頼綱(矢沢頼康の父)が撃退している。

越後での真田幸村

 上田合戦が始まる直前に、人質として越後に赴いた真田幸村の話をしておく。
 父・真田昌幸は一度上杉家を裏切った事があった為、臣従の証として真田幸村だけでなく、この時、叔父・矢沢頼綱の嫡子・矢沢頼幸と軍兵も越後に一緒に送っていた。
 そして、上杉景勝より九ヶ条の起請文を受けたが、その中には真田家に手違いがあったり、謀反の噂があっても、惑わされずに上杉景勝は真田に情をかけるとも記載されている。

 なお、上杉景勝は、上杉家を離反して徳川家康のもとに走った屋代秀正の旧領3000貫文の内、1000貫文を真田幸村に与えた。
 上杉家の重臣・直江兼続らも真田幸村を人質ではなく客将として迎えたようだ。

 19歳の真田幸村は越後で始めて広大な海を見た。
 騙したり、裏切る事により活路を見出してきた真田のやり方と異なり、何よりも「義」を重んじる上杉家の方針を目の当たりにし、感じるものもあったのであろう。

 上田合戦に勝利した真田昌幸は徳川家康との次なる戦いに備え、上杉家を通じて豊臣秀吉に臣従する。
 
 その為、越後滞在も5ヶ月程度とつかの間で、1585年11月~12月頃に真田幸村は、越後から大阪の豊臣秀吉へ人質として出仕した。

 1586年、徳川家康は豊臣秀吉に屈服すると、真田家は徳川家康の与力大名に命じられた。

 この時、真田信幸(真田信之)の才能を高く評価していた徳川家康は、重臣・本多忠勝の娘・小松姫を養女とすると、駿府城に真田信幸を出仕させて、婚姻の世話をしている。

 そして、豊臣秀吉の天下統一も、残す敵は関東の北条氏直のみとなった。

小田原征伐に真田幸村も参陣

 1590年には豊臣秀吉の小田原攻め(小田原征伐)が始まる。
 その際、上杉勢は10000の兵にて北国軍として2月10に春日山城を出陣し、上杉景勝や直江兼続らは2月15日海津城に入った。
 北国軍の総大将である前田利家前田慶次ら18000で2月20日に金沢を発し、信濃で上杉勢に合流。
 そして真田幸村も真田昌幸3000の軍勢に加わり、軽井沢で北国軍に合流。
 松平康国の4000と合わせて北国軍は35000の大軍となった。

 なお、この小田原攻めで、真田家の軍勢に初めて真田幸村の名が見られ、真田幸村の初陣とする説がある。
 しかし、真田幸村は次男と言う事もあり、若い頃の記録はほとんどない。
 1567年誕生説の場合、1590年では24歳であるため、実際にはもっと早く初陣は果たしていると言うより、攻められる事が多かった真田家だけにもっと昔から否が応でも、少なからず戦いに参加していたものと小生は考えている。

 北国軍が碓氷峠に差し掛かった際、北条勢も碓氷峠を防衛の最前線と考え、松井田城主・大道寺政繁は碓氷峠に与良与左衛門ら800の兵を置いていた。
 真田勢からは真田信幸(真田信之)がまず碓氷峠と松井田の物見に出たが、待ち構えていた与良勢と遭遇し、激しい戦闘になった。
 物見の真田信幸一行は少数であったが、見事与良を討ち取り北条勢を撃退。
 その後、真田勢は大道寺勢と遭遇し乱戦になったが、初陣の真田幸村は敵勢に突っ込み、かく乱させるなど活躍したと言う。
 
 そして北国軍は4月20日に松井田城を兵糧攻めし、大道寺政繁は降伏。箕輪城の垪和信濃守は城内で謀反が起こり追放され、箕輪城はほぼ無血で占領。
 真田昌幸と真田幸村は豊臣秀吉から箕輪城仕置きを命じられる。

 6月14日には北条氏邦の鉢形城を落とし、八王子城も攻め、6月20日大量虐殺の上、八王子城(下記写真)も陥落させている。

 八王子城

 その後、真田幸村は石田三成忍城水攻めにおいても、大谷吉継らと参加したとされている。

 小田原攻めの功により、真田家は豊臣秀吉より正式に沼田領を安堵され、以後、真田昌幸・真田幸村は上田の統治、真田信幸(真田信之)は沼田の統治に当たった。

朝鮮出兵

 1592年3月、真田昌幸、真田信幸、真田幸村は朝鮮の役に参陣する為、肥前・名護屋城に赴く。
 1593年8月、名護屋より大坂に戻り、そして上田に入った。
 1594年3月伏見城普請開始。真田昌幸、真田信幸、真田幸村の3人分で役儀を1680人と定めた。11月、真田信幸が伊豆守、真田幸村が左衛門佐に任ぜられる。
 なお、この1594年頃に、真田幸村は大谷吉継の娘 (竹林院)を正室に迎えた。

 のち、2人の間には、真田幸昌片倉守信あぐり(蒲生郷喜室)・菖蒲(片倉定広室)・おかね(石川貞清室)らが生れている。

 1598年8月18日、豊臣秀吉が死去。

関ヶ原の戦い

 1600年、真田昌幸、真田信幸、真田幸村は在京しており、徳川家康に促されて会津の上杉景勝を討つため、国元に戻り出陣の準備を行い、7月の上旬に上田城を発ち関東に向かった。

 宇都宮で徳川勢と合流する予定だったが、石田三成の密使により蜂起したとの報せが7月21日、下野・犬伏の陣(佐野市)の真田昌幸に届く。
 その長束正家増田長盛前田玄以の連署状を見て、真田昌幸、真田信幸、真田幸村の3人は今後の真田家の方針を話し合った。

 真田昌幸の妻・山手殿は羽柴秀長の家臣で13000石だった宇多頼忠の娘だとする説があるが、宇多頼忠のもう1人の娘は石田三成の正室になっているので、不明な点がある。
 いずれにせよ、山手殿自身が大阪で石田三成の人質となり、河原綱家の機転により逃れて上田城に帰還することに成功したが、当然、真田昌幸らはまだ知る由もなかったと推測される。
 兄・真田信幸は徳川四天王の1人・本多忠勝の娘(徳川家康の養女)を妻に迎えており、一時、徳川家に出仕もしていた事から、徳川家康を裏切る事はできない。

 このような事情から、真田昌幸と真田幸村は石田三成につくことを決めて徳川の陣を離れ本領・上田へ引き帰すことになり、真田信幸はこのまま徳川勢として小山に進み、徳川秀忠にその旨を報告した。この真田の決断は「犬伏の別れ」とも呼ばれ、兄・真田信幸(真田信之)は以後運命を共にすることはなかった。

 徳川家康は7月24日小山に着陣すると、即日、徳川に味方することを決断した真田信幸を賞して、離反した真田昌幸の所領についても真田信幸に安堵させた。
 一方、真田昌幸と真田幸村は今生の別れと、上田城に戻る途中、沼田城に寄り道して、孫(真田信幸の子)の顔を見てから上田に帰ろうと思い、夜半に沼田城に使者を出し入城を申し入れた。
 しかし、城を守る真田信幸の正室・小松姫(小松殿)は、真田信幸(真田信之)に害が及ばないように入城を拒否したと言われる。
 ただし、城外であればと、翌日、沼田城下の正覚寺に孫を連れて小松姫(小松殿)は真田昌幸と会ったと伝わる。
 そして、真田昌幸と真田幸村は7月23日に上田城に帰参し、石田三成と連絡を取り戦いに備えた。

第2次上田合戦

 宇都宮城を8月24日に出発し、中仙道を通り、関ヶ原を目指した徳川秀忠軍38000は、9月2日に小諸城に到着。
 翌日、真田昌幸と、徳川秀忠軍に同行していた兄・真田信幸と本多忠政が会見し、真田昌幸に降伏を促した。
 この時、真田昌幸は3500と僅かな兵力であり、頭を丸めて降伏する旨を伝えた為、これまでの徳川家の汚点を自らの手で拭う事ができたと徳川秀忠は喜んだ。
 しかし、上田城に兵糧・弾薬などを運び込み、上田城周辺の各所に伏兵をしのばせるなど、軍備を固める為の時間稼ぎであったと言う。

 降伏の約束を守らない真田昌幸に使者を出したが、逆に「返答を延ばしていたのは篭城の準備の為でござった。充分に仕度は出来たので、一合戦つかまつろう」と宣戦布告されると徳川秀忠は怒った。
 遅参しないよう進軍を急ぐようにと徳川家康からは命を受けており、本多正信榊原康政らは真田昌幸は侮れないので先を急ぐべきと進言したが、徳川勢にはかつて真田昌幸に敗戦したことを恨む者も多く、3万以上と言う圧倒的な兵力差であったことから、すぐに片付くだろうと初陣の徳川秀忠は9月5日に上田城への攻撃命令を出した。

 それこそ、真田昌幸の思う壺であった。
 1日でも多く徳川勢の大軍を足止めできれば、石田三成の調略や軍の配置・準備はそれだけ進み、西軍が有利になるだけでなく、決戦に遅らせることができれば、3万の徳川勢を倒したのと同じとなる。
 既に、降伏の返事を先延ばしにして3日間、足止めさせた。
 ここで、徳川秀忠が上田城を攻撃しても、先を急ぐのだからなんとか防いでいれば、そのうち引き上げるだろうから長期戦にはならない。
 すなわち、負けないと言う公算があったのだ。

 砥石城には真田幸村が入っており、徳川勢に抵抗する姿勢を見せたので、真田信幸勢を差し向けた。
 これは、真田信幸が本当に徳川の為に戦うのか、弟・真田幸村と戦わせて試そうとした意味もあったが、真田幸村は兄との戦闘を避けて、あっさり上田城に撤退した。
 かつて、武田信玄さえも攻略に苦しんだ砥石城を、簡単に真田信幸が占領した為、かえって徳川勢は疑心暗鬼となり、真田信幸を遠ざける為、そのまま守備させたと言う。
 その為、徳川勢は上田城に詳しい真田信幸抜きで、上田城攻めすることとなったが、結果的に、真田幸村は兄弟で血を争うことなく、東西両軍の真田勢は傷つかずに済んだ。(下記写真は戸石城)

 砥石城の門

 徳川秀忠は9月6日に上田城外の染谷台に陣を進め、上田城を包囲。
 短期決戦を狙った徳川秀忠は、9月8日、牧野康成に田畑の稲を刈り取らせて、真田勢が城から討って出るのを誘った。
 その誘いにまんまと乗ったと見せかけた真田昌幸と真田幸村は、約50騎を率いて城外に偵察に出る。
 それを見た牧野康成は、総大将自ら出て来たのに驚き、戦闘禁止の命を破って攻撃開始。そこに本多忠政も加わり、徳川勢が真田昌幸らを追って上田城に接近すると、真田勢は上田城に逃走し、徳川勢の先鋒は上田城の大手門まで迫った。
 その時、大手門を開くと真田の鉄砲隊が一斉射撃。

 戦闘開始を見た大軍の徳川勢は次から次へと上田城の大手門めがけて急いでおり、打撃を受けた先鋒が退却しようにも、後ろからは続々と功を焦る後続が押し寄せており、進退窮まったところに、上田城付近に潜んでいた真田の伏兵が襲い掛かり、上田城からも討って出て、散々に徳川勢を蹴散らした。
 更に、昨晩のうちに密かに城を出ていた真田幸村200が、伊勢崎城(虚空蔵山)から討って出てた伏兵と共に、手薄になった徳川秀忠本陣を襲撃。
 徳川秀忠は挟み撃ちされ、家臣から馬を与えられて、かろうじて小諸城に逃れた。
 また、第1次上田合戦同様に、神川の上流を密かに堰き止めていた為、真田幸村の合図で濁流が染谷台に押し寄せ、上田城に接近していた徳川勢は大損害を被った。

 9月8日に徳川家康から届いた書状を読むと「9月9日までに美濃・赤坂に着陣すべし」とあった。
 徳川秀忠は松代城に森忠政を抑えとして残すこととし、9月9日に急ぎ先に進軍開始。
 徳川軍は二度にわたって真田昌幸に敗れたこととなる。
 そして、徳川秀忠は悪天候もあり、結果的に9月15日の関ヶ原の戦いに間に合わず、4日後の9月19日に到着したのだ。

 松代城の森忠政は、葛尾城にも兵を置いて上田城を見張らせていた為、真田幸村が夜討や朝駆けをしたとされている。
 なお、最初に戦闘を起こした徳川勢の牧野康成は抜け駆けしたとして、のち謹慎処分を受けている。

九度山での幽閉生活

 関ヶ原の戦いの結果、石田三成は敗れて、協力した真田昌幸と真田幸村は窮地に立たされた。

 真田信幸は父・真田昌幸と決別すべく、名前を「信之」に改めて、以後、真田信之と名乗る。
 真田昌幸と真田幸村は上田領没収と死罪が下されると、徳川家康に味方した真田信之は妻の父・本多忠勝と共に懸命な助命嘆願をした。

 その甲斐もあって真田昌幸と真田幸村は何とか命は助けられ、10月9日、16人の家来と高野山蓮華定院に送られた。
 しかし、真田幸村が妻の竹林院を伴った為、高野山は女人禁制で不便と言う事で、冬からは高野山麓の九度山にて蟄居する。(高野山が寒かったため、麓に移ったとも。)
 九度山に付き従った16人の家臣は、筧十蔵穴山小助、根津甚八、由利鎌之介三好伊三入道猿飛佐助望月六郎真田十勇士のモデルとされる。
 なお、真田昌幸の妻・山手殿は真田信之の元に留まり、1601年頃から大輪寺で余生を送った。

 兄・真田信之は沼田領30000に加え、旧領30000も安堵され、合計95000石で上田藩主となった。

 真田昌幸と真田幸村は九度山の真田庵で暮らし、紀伊藩からの年50石の合力や、山手殿からの仕送りで生活したが、借金をするなど苦しい生活であったようである。
 有名な「真田紐」は竹林院が自ら上田地方の紬技術を応用して考案し、家臣たちに行商させたという。
 九度山では多少の監視はあったものの、暗い部屋から出れなかったと言う事ではなく、日頃は狩や囲碁をしたり、深夜まで兵書を読み交わし、近隣の郷士らと兵術や鉄砲の鍛錬をしていたと伝わり、人の出入りなどは自由だったようだ。

 →真田庵・真田屋敷があった九度山とはどんなところ?

 真田昌幸の長男・真田大助(1601年又は1602年誕生、母は大谷吉継の娘・竹林院。のち真田昌幸)、次男・真田大八(母は竹林院)や、あぐり(のち蒲生郷喜の室)・菖蒲(のち片倉定広の室)・おかね(のち石川貞清の室)ら女子3人も九度山で生まれたとされる。

 1603年2月、徳川家康が征夷大将軍に任じられ、江戸幕府が開かれた。

 1611年6月4日、大阪冬の陣を目前にして真田昌幸は配流先の九度山で病死。享年65歳。
 正式の葬儀は行われず、真田昌幸の一周忌がすむと、上田から真田昌幸に随行した家臣の大部分は帰国して真田信之に帰参。
 残った、真田幸村の家臣は高梨内記など2~3名しかいなかったとされる。
 翌年1612年に、真田幸村は出家し、伝心月叟と名乗った。

 なお、真田昌幸は亡くなる前に豊臣と徳川の大戦(おおいくさ)を予測して、徳川勢に勝利する作戦を真田信繁に授けていたともされ、その際にすぐに行動に移せるよう、忠臣150名を九度山近くに村々に住まわせていたとも考えられている。
 真田信繁(真田幸村)が「無名」であるため、その作戦をどれだけ信用してもらえるかどうかが、一番の心配だったとも・・。

九度山を脱出

 大阪城の淀殿は、豊臣秀頼による天下を夢見ていたが、頼りにしていた結城秀康、浅野長政、堀尾吉晴、加藤清正池田輝政浅野幸長前田利長も亡くなり、将軍職が徳川秀忠に世襲されると分かると、豊臣家内部では主戦派が主流となり、各地から浪人を召抱えるようになる。

 1614年、徳川家と豊臣家の関係が悪化し、8月に京都方広寺の豊臣家が大仏開眼供養が実施しようとしたが、徳川家康は梵鐘の銘文に「国家安康」「君臣豊楽」と記載されている事に難癖をつけた。
 大仏殿造営を行った片桐且元は、急ぎ駿府の徳川家康に弁明しようとしたが、徳川家康は片桐且元に面会せず、本多正純に命じて豊臣方の不都合を攻めた。
 大阪に戻った片桐且元は、淀殿に大坂城を明け渡すか、豊臣秀頼か淀君のいずれかを人質として江戸に送らなければ、徳川家康の怒りを収められないと報告。
 徳川と豊臣の板挟みにあった片桐且元は大坂城内で孤立し、身の危険を感じて摂津茨木の居城に篭った。

 最終的に豊臣家は徳川家に対抗する方法を選択するが、関ヶ原の戦い以降、豊臣家は65万石、兵は30000前後しかない。
 豊臣秀頼の名を持って、故太閤秀吉恩顧の大名、福島正則蜂須賀家政細川忠興、蒲生秀行、佐竹義宣、島津家久、前田利常、浅野長晟、池田利隆らに徳川家康に抵抗するよう使者をだしたが、誰一人豊臣に味方はしなかった。

 一方、徳川家に対して不満を持つ諸国の浪人を呼び集める策もとり、10月2日より大阪城に浪人を集め始め、長宗我部盛親後藤又兵衛(後藤基次)、毛利勝永明石全登塙直之大谷吉治らも応じた。

 この際、豊臣勢は九度山で蟄居中の真田幸村宛にも使者を出し、大阪城に入るよう支度金として、黄金200枚、銀30貫を贈った。
 更に徳川幕府から政権を奪取した暁には50万石を約束したとされる。

 真田幸村は10月9日に家族を伴って九度山を脱出。
 父・真田昌幸の旧臣(上田領)たちにも参戦を呼びかけ、子の真田大助(真田幸昌)とともに大坂城に入城すると、分散させていた旧臣や上田からの旧臣も約100人が大阪城に参じたと言う。

 しかし、この時、真田幸村は48歳でその容姿は、歯は抜け落ち、白髪交じりで腰も曲がっていたため、大阪城へ入城の際の門番に「山賊」と勘違いされたと伝わる。

 九度山の監視役であった紀州の浅野長晟は、真田幸村脱出を知って追っ手を出したが、九度山の郷民は3時間前に逃亡したのを3日前に出たとかばい、追うのを諦めさせたとか、紀州の浅野長晟はわざと逃がしととも言われている。

 10月1日、徳川家康は大坂城討伐を江戸の将軍・徳川秀忠に通達し、自らは10月11日に駿府城を出発。
 また、本多正純らに命じて、近畿西国の諸藩に大阪攻めを命じ、伊勢・近江・美濃・尾張・三河・遠江の諸藩は淀や瀬田に布陣させ、北国勢は大津や、阪本、堅田へ、中国勢は池田、西国勢は西宮、兵庫にそれぞれ布陣させた。四国勢には船団を編成させ、和泉の沿海に停泊。大和の諸城主には各自の城の守備を固めさせた。

 10月14日に京都所司代・板倉勝重は浪人が多数、大阪城に入り、真田も入ったと徳川家康に報告した。
 父・真田昌幸や、兄・真田信之と比べて、真田幸村はこの時点ではほとんど無名。
 真田?と聞いて「篭城した真田は昌幸か?」と徳川家康一瞬驚いたが、使者が、篭城したのは子の真田幸村(真田信繁)で、真田昌幸は既に病死していると告げると、徳川家康は安堵したと言われている。
 11月23日に徳川家康は二条城に入った。

 真田幸村は大坂城では援軍が期待できない以上、単なる篭城では勝てないと力説し、父と立案していた作戦通り「積極策」を主張。
 徳川勢の軍が揃わないうちに先制攻撃をして、豊臣秀頼自ら出馬し天王寺に旗を立て、真田幸村、毛利勝永、後藤基次らで伏見城を落とし、宇治・瀬田に陣を構え、東軍の渡河を阻止。木村重成らが京都所司代を屠って京都を占領し、長宗我部盛親、明石全登らは大和から奈良を攻撃し、豊臣秀頼側の近衆が片桐且元の茨木城を攻撃して大津に砦を築けば、豊臣恩顧の大名も味方に加わる。
 このように畿内を制圧してから遠征疲れの徳川本隊と戦うことを提案。
 浪人衆の後藤基次、毛利勝永、長宗我部盛親らも真田幸村の提案に賛成した。

 しかし、豊臣恩顧の大野治長らは、徳川家康の行軍速度が遅い間に、もっと多くの浪人が大阪城に入り、豊臣方が大軍と知れば、徳川から豊臣に寝返る大名が出てくると主張。
 また、豊臣秀吉が築いた広大で強固な大坂城は絶対に落城しないと、結果的に篭城策を取る事に決まったが、徳川勢に加わっている真田の本家(真田信繁の兄)もいたため、裏では真田信繁じたい信用させていなかったと推測する。
 もっとも、この時徳川家康は73歳の高齢だ。
 豊臣としてはこれまでずっと、徳川家康が亡くなった時こそ好機と耐えて待っていた事もあり、籠城の備えもできているとすれば、籠城して兵力を温存し、時間を稼ぐと言うのも悪くない作戦と言える。
 事実、徳川家康は2年後に75歳で死去している。

 篭城すると決すると、真田幸村は大阪城の南側防御に弱点があると指摘。南方の天王寺方面に抜ける丘陵地帯に砦を築くことを願い出た。
 しかし、この提案も真田信繁の裏切りを警戒して信用されなかったが、後藤基次(後藤又兵衛)らの後押しもあり、見張りがつくと言う条件で、なんとか砦を作る許可を得た。

 真田丸の抜け穴

 大坂城の堀を背負い、三方を空掘りで囲み、柵は三重にめぐらして、矢倉などを設けた堅固な砦となり、大阪城と繋がるトンネルもあったと言い、のち「真田丸」と呼ばれ、真田幸村の率いた軍は、鎧を赤で統一した「真田の赤備え」とした。

 11月15日、徳川家康は奈良の大和路から、徳川秀忠は河内路から大阪城へと迫り、11月19日大坂冬の陣の火蓋が切って落とされた。

大阪冬の陣

 浪人を合わせると約10万人となった豊臣側が期待していた豊臣恩顧の大名の寝返りがなく、初戦は20万と言う大軍である徳川勢が有利に戦いを進め、戦局は豊臣側不利で推移した。

 そんな中、唯一、真田幸村率いる真田丸の兵5000が徳川勢をかく乱し、僅かではあるが戦果を上げていた。

 真田丸の眼前には伊達政宗藤堂高虎松平忠直10000、井伊直孝4000、寺沢広高、松倉重政、前田利常12000が布陣し、そのうしろには徳川家康本陣、徳川秀忠本陣が控えた。
 真田幸村は、真田丸に攻め寄る徳川勢大名の中より、加賀藩2代目の前田利常に注目した。前田氏は豊臣恩顧の大名で、徳川政権下では最大の外様大名であり、次々と外様大名が因縁をつけられて取り潰しや改易にあう中、必ずしも徳川家を信用していないと判断した模様だ。

 積極的に攻めてこない徳川勢に対して、真田幸村は前田利常の陣だけに、毎日、鉄砲隊により射撃した。前田利常は徳川家康から城を攻撃するなと命じられており、はじめのうちこそは、真田幸村の鉄砲にも耐えていたが、毎日死傷者が出て、次第に真田隊の攻撃に苛立ちはじめる。

 12月3日、前田利常の許可無く、前田勢の本多正重山崎長徳らが痺れをきかして、真田の鉄砲隊が潜んでいた真田丸から約200mの地点にある篠山に押し寄せた。真田幸村は前田勢の出撃をみて、鉄砲隊を退却させた。そんな事に気がつかず、篠山に到着した前田勢は敵はどこだと右往左往。それを見た真田丸の真田兵が嘲笑し愚弄したので、前田勢は敵だけでなく味方からも笑い者となり、前田家の面子を潰した。

 前田勢は理性を失い、翌日12月4日の夜にも篠山へ押し寄せたが、やはり誰も居なかったため、また笑い者になると、そのまま真田丸を攻撃せんと、真田丸の堀際まで攻め立てた。藤堂高虎、井伊直孝、松平忠直は前田勢が抜け駆けしたと思い、功を焦って一斉に真田丸を攻撃するために軍を進めた。

 真田丸の真田幸村は、前田勢が充分城壁にとりついたところまで、誘き寄せてから、鉄砲で一斉に迎え撃ち、空掘りに攻め込んだ敵兵数百を討ち取り、後続部隊を釘付けにした。被害にたまらず退却しようとした徳川勢であったが、真田丸の西後方の大阪城壁を守る石河康勝隊で火薬桶に火縄を誤って落としたために大爆発が起き、真田丸の矢倉も焼ける事件が発生。

 これを大阪城で寝返る手はずになっていた南条元忠が寝返った合図と勘違いした徳川勢は、大阪城になだれ込もうと平野口に殺到した。
 ちなみに、南条元忠は前日に徳川に内通していることが発覚し、切腹させられていたが、当然、徳川勢は知らなかった。
 城壁に殺到する狭いところに大軍で押し寄せた徳川勢を真田幸村は再度鉄砲で攻撃。徳川勢の被害は増大し、退却しようにも、うしろからは大勢の兵が進んでくるので、退却もままならず、徳川勢は大混乱に陥った。そこに、真田幸村は真田丸から真田大助、伊木七郎右衛門ら500人を出して、寺沢広高、松倉重政に甚大な被害を与えた。また松平忠直隊480騎、前田利常隊は300騎が戦死すると言う大損害を受けた。

 日常は穏やかでありながら、いざという時は武勇を発揮する真田幸村が烏合の衆である浪人衆を巧みに束ねて、的確な指揮が行き届いた結果の戦果であり、真田昌幸の息子という扱いではなく、48歳近くになり、初めて武将・真田幸村として、その武名を世の中に知らしめる事となった。

 結果、強固な大阪城を力攻めするのは難しいと悟った徳川家康は、12月3日から大阪城に和睦の使者を出す。大坂城内では、真田幸村ら浪人衆を中心に、講和に反対する意見が多かったが、京にも砲音が届き途切れることはなかったと言う大砲の攻撃に悩まされていた淀君と、真田丸以外では不利の戦が続いていると大野治長らは大坂城の外堀の埋め立ての条件を承諾して12月19日、和睦することにした。
 備前島から撃たれたカルバリン砲により、淀殿の女中が戦死したのが和睦に傾く要因として描かれる場合が多いが、徳川からスパイとして送り込まれていた織田有楽斎と織田頼長、甲州流軍学者の小幡景憲などが淀殿の居場所を報告していたのだろう。

 その和睦交渉の間、徳川家康の側近・本多正純の傍にいた真田信尹が、真田丸を訪ねて真田幸村に面会。信濃10万石を条件に徳川への寝返りを勧めたが、10万石なら飛びつくであろうと思っていた徳川家康の思惑を、真田幸村はあっさり断っている。最初は信濃の中より1万石の条件を出したところ、断られたので、信濃1国10万石の条件を再び提示したとも言われ「一万石では不忠者にならぬが、一国では不忠者になるとお思いか?」と真田幸村は断ったとも言われている。

 なお、大坂冬の陣に本家・真田信之は、病気のため出陣していない。代わりにまだ若い真田信吉真田信政と2人の子が、真田信之の名代として参陣していた。それを知り、真田幸村は大坂の陣では六文銭の旗印を使わず、真紅の旗印を使い、甥に対して気を遣ったとされている。

 また、戦後、真田信吉や真田信政や真田家臣とも会見し、上田に住む姉・村松に宛てた手紙では、冬の陣で大坂方につき、上田の真田本家に迷惑をかけた事を詫びている。
 豊臣が和睦に応じたのは、時間を稼げればそのうち、老齢の徳川家康も亡くなり、そのときこそ豊臣恩顧の大名も味方につき情勢を打破できるだろうとの期待もあったと考えられる。その為、日数が掛かる、外堀・内堀・二の丸埋立ての条件をのんだと考えられるが、埋め立てを命じられた徳川側の諸大名は、命じられたよりも多くの人夫を動員し、作業も徹夜で行い、短期間に外堀を埋めた。そして、豊臣勢が担当する事になっていた部分まで「工事が進んでいないので手伝う」と埋め立てし、最終的に二の丸までを埋めてしまい、大阪城は堀を失い、数ヶ月で本丸のみになってしまった。

 なお、真田丸は埋め立て前の一番最初に取り壊されてしまっている。
 そのため、豊臣は再びの篭城に備えて、兵糧、弾薬を城内に運び、再度浪人を募集し大阪城に入れ始める。これに対して、徳川家康は、豊臣秀頼が大坂城を出て国替えに応じ、集めた浪人衆を追放することで、徳川への恭順を示せと厳しく要求した。
 この要求を到底、豊臣は受け入れる事はできず、再び戦いとなるのである。

真田信繁の甲冑

大阪夏の陣

 1615年、再び徳川勢は大阪城を取り囲み、大坂夏の陣がはじまるのである。
 4月6日頃、徳川家康は諸大名に鳥羽・伏見に集結するように命令。
 徳川家康は4月18日に、徳川秀忠は4月21日に二条城に到着。約15万5000の兵を二手に分けて、5月5日京を発った。

 一方で大阪城に10万いた豊臣勢も、この頃には55000程度まで落ち込んでいたものと推測されるが、徳川の大軍が押し寄せる前に、紀州藩・浅野長晟に打撃を与えるため、豊臣方は大野治房を主将に、塙直之、岡部則綱、淡輪重政ら兵3000で先制攻撃のため出陣し4月26日に筒井定慶の守る大和郡山城を落として紀州に侵攻した。

 浅野長晟は4月28日に5000を率いて和歌山城を出発。樫井の戦いとなり、豊臣勢の塙直之、淡輪重政が討死。大野治房らは堺まで退却し5月6日まで浅野勢と対峙した。
 一方、大和路から大坂城に向かう、水野勝成を先鋒大将にし、総大将・松平忠輝、後見役・伊達政宗など総勢34000の徳川軍を、河内平野に侵入する狭い場所にて有利に迎撃する作戦を立てる。5月6日、後藤基次指揮の2600が道明寺に到着。しかし、内応者などからこの豊臣勢の動きを事前に察知していた徳川軍は既に迎撃体制を取っていた。

 早朝、後藤基次指揮の2600は単独で松倉重政、奥田忠次勢に対し攻撃をし、奥田忠次を討取り、松倉勢も追い詰めたが、徳川勢の水野勝成、堀直寄が来援し、その後、伊達政宗、松平忠明らが激しい銃撃を加えた。後藤基次は丹羽氏信勢に側面を衝かれ、後藤基次は戦死し部隊は壊滅した。

 午後になり、薄田兼相、明石全登、山川賢信ら豊臣勢3600が道明寺に到着し、徳川軍を迎え撃ったが、薄田兼相は戦死し、豊臣勢は後退した。
 更に、豊臣勢の毛利勝永、真田幸村ら12000が道明寺に到着。後退してきた兵を吸収して、誉田村付近に着陣した。伊達勢の片倉重長は、真田勢を見ると攻め寄せ、激戦となったが決着はつかず、徳川軍は道明寺から誉田の辺りで陣を建て直し、豊臣軍は藤井寺から誉田の西にかけて布陣して、両軍が対峙・にらみ合いの状態になった。
 そこへ、豊臣勢には大阪城より退却命令が届き、真田信茂を殿軍とし、午後4時過ぎから天王寺方面へ撤退を開始した。

 豊臣勢は、後藤基次の部隊のみが予定通りの作戦行動が行え、他の各部隊はことごとく遅参し、充分な兵力で徳川勢を撃つことができなかった。
 道明寺の戦いで後藤、薄田らの将を失い、若江・八尾の戦いでは木村重成を失った豊臣勢だったが、まだ50000の兵が残されていた。戦国の世最大にして最後の戦いとなる天王寺・岡山の戦いが始まる。

 豊臣勢は最後の決戦のため、大阪城を5月7日出陣。真田幸村は士気を高める為、豊臣秀頼自身の出陣を求めたが、側近衆や母の淀殿に阻まれ失敗する。

 天王寺口は茶臼山に真田幸村、子の真田幸昌、一族の真田信倍ら3500、茶臼山前方に真田幸村の寄騎・渡辺糺や早川長政(早川長敏)、大谷吉治、伊木遠雄ら2000、茶臼山西に福島正守、福島正鎮、石川康勝、篠原忠照、浅井長房ら2500、茶臼山東に江原高次、槇島重利、細川興秋ら(兵数不明)、四天王寺南門前には毛利勝永勢、木村重成・後藤基次の残兵など6500が布陣。

 岡山口は大野治房を主将に新宮行朝、岡部則綱らが、後詰に御宿政友、山川賢信、北川宣勝ら計4600が布陣。

 そして、別働隊として、茶臼山から北西に離れた木津川堤防沿いに明石全登勢300、全軍の後詰として四天王寺北東の後方に大野治長、七手組の部隊15000が布陣した。

 対する徳川勢は、天王寺口先鋒に本多忠朝を大将とした秋田実季、浅野長重、松下重綱、真田信吉、六郷政乗、植村泰勝ら5500。二番手に榊原康勝を大将とし、小笠原秀政、仙石忠政、諏訪忠恒、保科正光ら5400。三番手に酒井家次を大将とし、松平康長、松平忠良、松平成重、松平信吉、内藤忠興、牧野忠成、水谷勝隆、稲垣重綱ら5300、その後方に徳川家康の本陣15000を置いた。

 岡山口は先鋒前田利常、本多康俊、本多康紀、片桐且元ら計20000。二番手は井伊直孝、藤堂高虎勢ら7500と、細川忠興(兵数不明)。その後方に近臣を従えた徳川秀忠の本陣23000を置いた。

 5月7日の正午頃、豊臣勢・毛利勝永指揮下の寄騎が、物見に出ていた徳川勢・本多忠朝隊を銃撃した事により戦闘開始。真田幸村は自隊を先鋒・次鋒・本陣など数段に分け、天王寺口の松平忠直隊と一進一退の激戦を続けたが、「紀州の浅野長晟が裏切った」という虚報を徳川勢に流すと、越前・松平勢が動揺したのに乗じて突破。徳川家康本陣へ迫り、三度に渡り徳川家康本陣へ突撃を繰り返した。

 

 真田幸村の攻勢に徳川家康本陣は大混乱に陥り後退を開始。三方ヶ原の戦い以降倒れたことのない家康の馬印が倒れるなど、徳川家康は窮地に追い込まれ、騎馬で逃げる徳川家康は切腹を幾度もなく口走ったが、側近に止めたられと言われている。

 しかし、さすがの真田隊も死傷者が増え戦力が低下。真田幸村は疲労のため安居天神で休息をとっていたところを松平忠直隊鉄砲組頭の西尾宗次(西尾仁左衛門)に槍で刺され討ち取られたとされるが、徳川家康は「幸村を討ち取った」という報告を真に受けようとしなかったとも言われている。堺にある南宗寺境内には「家康の墓」も現存しており、徳川家康は真田幸村勢に傷つけられ亡くなったと言う俗説もある。また真田幸村は傷を負い、安居天神で自刃したと言う説や、真田勢の兵士の手当てをしていたところ襲われたと言う説もある。

 安居天神

 上記写真は安居天神。
 いずれにせよ、徳川家康を震えあがらせた真田幸村(真田幸村)の名は不朽のものとなったのである。

 大阪夏の陣にて真田幸村に付き従った家臣は、真田勘解由、大塚清兵衛、高階主膳(高梨主膳か?)、海野小平太(海野六郎)、望月善太夫(望月六郎)、禰津小六(根津甚八)、山岡軍平、柏田玄仲、角輪佐吉、利光久兵衛、沼田清次郎、真田権太夫、森川隼人、瀧川平太夫、丹生弥二郎、星田勘平、馬渕六郎太夫。
 別の史料では、真田与左衛門、江原左平太、福岡平三郎、青柳清庵、本郷左近、早川平左衛門、真田勘解由、高梨主膳とある。

 真田幸村戦死の碑

 豊臣勢は乱戦の中、大谷吉治も戦死、御宿政友は重傷、毛利勝永は真田勢壊滅の後、四方から集中攻撃を受けたため大阪城内に撤退。別働隊の明石全登は天王寺口の友軍が壊滅したことを知ると松平忠直勢らに突撃しその後姿を消した。

 真田幸村の嫡男・真田幸昌は、父とともに最後まで付き従うつもりだったが、大坂城の落城を見届けるように命じられ、やむなく大坂城に引き返したとされる。大坂城落城の際には13歳又は16歳であり、若年のために脱出するように勧められたが、豊臣秀頼が切腹すると、真田幸昌は加藤弥平太の介錯で切腹した。大阪城の淀殿、豊臣秀頼らの自害の地に建てられた地蔵の前に、淀殿や豊臣秀頼、大野治長と並んで真田幸昌(真田大助)の名前も記されている。

 真田幸村討死の翌5月8日、豊臣秀頼・淀殿母子は大坂城内で自害し、太閤秀吉の誇った大坂城は炎上し落城。天下は完全に徳川家のものとなった。
 しかし、大阪ではその後、真田幸村は生きており、豊臣秀頼・淀殿を助け、紀州へと逃げ落ちたという噂が流れ、さらなる噂では薩摩の島津家領内に逃げて隠れていると言う噂も出て、徳川家を脅かしたと言う。

 下記写真は、信州上田おもてなし武将隊 真田幸村と十勇士隊 の 真田幸村殿
 ※真田幸村の日の本一の独り言より

sanada-yu

 信州上田おもてなし武将隊の皆様は、上田城などで素晴らしい「演舞」も無料披露なさっておられますので、スケジュールご確認の上、是非、上田城にお出掛け下さい。

 → 真田昌幸の詳細はこちら

真田幸村への賞賛

 大阪夏の陣で、真田幸村の神がかり的な戦いぶりを目の当たりにした島津家当主・島津忠恒(島津家久)は手紙にこう記している。

真田は日本一の兵(つわもの)。
真田の奇策は幾千百。
そもそも信州以来、徳川に敵する事数回、一度も不覚をとっていない。
真田を英雄と言わずに誰をそう呼ぶのか。
女も童もその名を聞きて、その美を知る。
彼はそこに現れここに隠れ、火を転じて戦った。
前にいるかと思えば後ろにいる。
真田は茶臼山に赤き旗を立て、鎧も赤一色にて、つつじの咲きたるが如し。
合戦場において討死。
古今これなき大手柄。

 徳川家康は真田幸村の首実検の際に「幸村の武勇にあやかれよ」と、側にいた武将に言うと、皆、こぞって遺髪を取り合ったという。
 そして「幸村の戦いぶりは敵ながら天晴れであり、江戸城内にて幸村を誉め讃えることを許す」と、石田三成の事でさえ褒める事が無かった徳川家にて、褒め称える事を許したと言う。

 兄・真田信之は、弟の人柄をこう評している
 「柔和で辛抱強く、物静かで言葉も少なく、怒り腹立つことはなかった」
 「幸村こそ国を支配する本当の侍であり、彼に比べれば、我らは見かけを必死に繕い肩をいからした道具持ち。それ程の差がある。」

 真田幸村は、そのまま生きていたければ、九度山で暮らせばよかった。
 しかし、己の保身など顧みず、戦局不利で死が待つのみと分かっていても、降参もせず、また、家臣らも誰一人掛けることなく、武士の誇りを持って本懐を遂げ、敵味方関係なく賞賛を受けた。
 それが「真田幸村」なのだと思う。

 真田幸村を討って褒美を授かった松平忠直の家臣・西尾宗次(西尾仁左衛門)は、故郷に「真田地蔵尊」を建て菩提を弔った。
 現在は、福井市立郷土歴史博物館にて展示されている。

 真田昌幸や真田信繁の智恵とその生き様は、弱者には弱者なりに「知恵を絞って生きる策を講じるべし」と、現代においても訴えているように感じずにいられない。

大阪城・真田丸の詳細はこちら
真田昌幸~戦国時代を巧みに生き抜き真田家を守った名将
犬伏の別れ~真田家の生き残りをかけた決別の地「犬伏」と「小山評定跡」訪問記・駐車場情報
真田家関連カテゴリは約60記事あります
大河ドラマ「真田丸」関連は約100記事以上
真田信之に関してはこちら
天王寺・岡山の戦い~真田幸村最後の雄姿 
信州・真田の里の詳細はこちら
蓮華定院【真田昌幸と真田幸村が最初に蟄居した幽閉の地】高野山
真田幸村が9年間暮らした「九度山とはどんなところ?」
片倉景綱と片倉重長~智勇と温情を兼ね備えた片倉小十郎
肥前・名護屋城からちょっと離れた真田昌幸陣跡にある「サナダサエモン様の墓」
真田丸のあらすじと今後の展開【NHK大河ドラマ2016】
真田信繁(真田幸村)でのゲーム開始攻略法【信長の野望・創造-戦国立志伝】

 以上、この記事の編集だけでも何日も要しました16000文字以上と言う、愚生の大変長い文章を最後までご覧頂きましたこと、謹んで深く御礼申し上げます。
 もしよろしければ、下記のコメント欄に「皆様が考える、真田幸村の評価」などの書き込みを残して頂けますと幸いに存じます。

スポンサーリンク

関連記事

コメント

    • みかりん
    • 2015年 2月 24日

    皆様、はじめまして。先日、このサイトの戦国武[email protected]です。♡
    色々とコメもして参りたいと思いますので、返信も頂けたらうれしいです。
    真田幸村さまは、もう、憧れの存在です。(*^-^*)
    幸村様が好きな人とも、このコメで交流できるといいな~? (*^▽^*)

    • ユキヒョウ
    • 2015年 2月 25日

    みかりんさん
    私は、戦国武将詳しいとう訳ではないのですが、真田幸村は私の尊敬する人です!
    島津義弘といい私はこういう生き様に弱いです(^-^;
    侍、武士魂には惚れますよねo(^^)o

    • みかりん
    • 2015年 2月 26日

    ユキヒョウさん、コメありがとうございます。
    そうなんですよね。カッコいい生き方ですよね。
    休み時間中なので短くでごめんなさい。m(__)m
    また、機会がありましたら、コメ頂けますとうれしいです。♡

    • まさ
    • 2015年 8月 08日

    父が昔、真田幸村のことを口にしているのを聞いていました。当時の父の年代50代になり、職場でのある出来事をきっかけに、義とは何かと考えるようになり、インターネットで検索していたら、こちらにたどり着きました。
    現代社会にも通じる生き方のお手本を知ることができました。敵味方関係なく尊敬されるというのは、一つの理想だと思います。自分なりに、何を大事に生きて行けばいいか、さらに考えてみたいと思います。ありがとうございました。

    • 高田哲也
    • 2015年 8月 08日

     まさ様、この度はお忙しい中、コメントありがとうございます。
     職場でも色々と大変な事がおありだと心中お察し申し上げます。
     まさ様のコメントを拝見いたしまして、敵味方からも尊敬されるような人間に、私も少しでも近づけるよう、頑張って見ようかと思いました。
     また、機会がございましたら、是非、コメント賜りますと幸いです。

    • たけぼうき
    • 2015年 8月 18日

    初めまして。
    母の実家が真田町にあり、子供の頃から夏休みの度に真田本城(通称城山)やお屋敷跡(資料館近くの神社)でよく遊んでいました。当時は真田氏資料館もなく、大きな道もないので当時の面影とは少し変わってしまいましたが・・・懐かしいですね。
    矢沢のお城や松尾城へはまだ行ったことないのでいずれ入ってみたいものです。

    上田城へいったら是非刀屋というおそば屋さんへ、入ってみて下さい。
    田舎そばですが、東京と違って非常に量が多いので、大盛りは避けた方がいいですね。
    大手門から少し離れていて(徒歩10分内)お昼時間は並びますが、時間をずらすと比較的入りやすいですよ。
    真田太平記作者 池波正太郎氏も行ったことが有るとか無いとか。

    • 高田哲也
    • 2015年 8月 18日

    たけぼうきさま、コメントを賜りまして、誠にありがとうございます。
    矢沢城と松尾城は麓までは行ったことがあるのですが、城郭へは行けておりませんので、何年後になるかわかりませんが、機会があれば訪れたいと思っております。
    上田城近くの「刀屋」さん、了解致しました。(^-^)
    貴重な情報ありがとうございます。
    駅前の唐揚げ屋さんしか行ったことないので、今度、お邪魔したいと思います。

    • さや侍
    • 2016年 1月 07日

    素晴らしい、読み応えのある内容で、情報を漏らすことなくしかも簡潔にまとめてあって非常に感銘を受けました。最後まで一気に読み進めました。ここ読んどけば他のサイト見る必要なしと言っても過言ではないでしょう。
    ところで、幸村の生涯を初めて知った自分が感動したのは、今では知らない人のいない程有名な彼が、若い頃にはたいした武名も伝えられず、その半生を人質や幽閉でかなり長い間費やし、大阪の陣で蜂起した時は50歳近くだったという事です。46になる自分はどうしても彼のその時と自分を重ねてしまい、今まで積み上げてきた物とか自分の置かれている現状とか、いろんな感情が葛藤する中で彼が至った決断の過程を思い巡らせると切ない気分にさえなります。
    大河ドラマも始まることですし背景の勉強にまたお邪魔します。これからも頑張ってください。

    • 高田哲也
    • 2016年 1月 07日

    さや侍さま、コメントを賜りまして誠にありがとうございます。

    節操も無い長文を最後までご高覧頂けましたご様子で、大変うれしく存じます。
    ご批判を頂く事もあれば、さや侍さまのように励ましのコメントをわざわざお寄せ頂ける方もおられ、励みになります。
    Facebookのグループもございますので、よければ一度ご覧ください。
    https://www.facebook.com/groups/675590472547562/
    この度は、ありがとうございました。

    • 藤林
    • 2016年 2月 28日

    いやー、読み応えありますね。他の方同様一気に読んでしまいました。

    近年ではゲームや漫画で脚色されたイメージや一部の活躍をきっかけに知る方も多いであろう幸村ですが、やはり史実を追うと面白いですね。折しも大河ドラマで取り上げられた今、改めて調べてみようとこちらに辿り着く方もいらっしゃるのではと思います。

    素晴らしいまとめに感服です。ここで生涯を知り、改めて真田幸村は元より、真田家の魅力が増しました。ありがとうございます。

    • 高田哲也
    • 2016年 2月 28日

    藤林さま、この度はコメントを賜りまして、誠にありがとうございます。
    長くて文章もヘタな記事ばかりですが、ご高覧賜りました事、深く御礼申し上げます。
    他にも真田関連は色々とございますので、合わせてご覧頂けますと幸いです。

    • 幸村
    • 2016年 3月 23日

    楽しく一気に拝読しました。ただ読みで申し訳なく御礼申し上げます。古今東西 日本のみならず 英雄は存在したのでしょう。真田の武勇とその生き様はフィクションでなく事実であることがどんなにか後世の我々の励みや誇りとなっているかこの歳になるとわかるような気がします。文章構成がしっかりされており視点も一定で非常に面白く拝読させていただきました。

    • 高田哲也
    • 2016年 3月 24日

    幸村さま、最後までご高覧賜りまして、深く御礼申し上げます。他にも真田系記事ございますので、よければ、ご覧ください。ありがとうございました。

    • YASU|直平真
    • 2016年 5月 01日

    キャスティングに含意がありそうな印象を受けますが、地盤沈下の続く大阪圏の歴史時代的背景を再認識する
    と共に、朝ドラ「あさが来た」の狙いでもあったであろう経済基盤の再建、私利私欲に走り義を欠いておかし
    くなってしまった社会の再構築がメインテーマであろうとみて、興味深く鑑賞しております。ご挨拶迄。

  1. 2015年 2月 12日
  2. 2015年 2月 15日
  3. 2015年 3月 03日
  4. 2015年 3月 06日
  5. 2015年 3月 06日
  6. 2015年 3月 06日
  7. 2015年 3月 07日
  8. 2015年 3月 10日
  9. 2015年 4月 29日
  10. 2015年 8月 30日
  11. 2015年 9月 02日
  12. 2015年 9月 07日
  13. 2015年 9月 08日
  14. 2015年 9月 09日
  15. 2015年 9月 09日
  16. 2015年 9月 24日
  17. 2015年 10月 04日
  18. 2015年 11月 20日
  19. 2015年 11月 20日
  20. 2015年 11月 21日
  21. 2015年 11月 22日
  22. 2015年 11月 25日
  23. 2015年 11月 25日
  24. 2015年 12月 09日
  25. 2015年 12月 09日
  26. 2015年 12月 12日
  27. 2015年 12月 13日
  28. 2015年 12月 14日
  29. 2015年 12月 14日
  30. 2015年 12月 19日
  31. 2015年 12月 20日
  32. 2015年 12月 20日
  33. 2015年 12月 20日
    トラックバック:仙台真田家とは -真田丸
  34. 2015年 12月 20日
  35. 2015年 12月 20日
  36. 2015年 12月 24日
  37. 2016年 1月 03日
  38. 2016年 2月 09日
  39. 2016年 2月 09日

CAPTCHA


 スポンサーリンク

気になる戦国女性

  1. senjp11
     大蔵卿局・大蔵局(おおくらのつぼね)は浅井長政の家臣だっとされる大野定長の妻で、茶々の乳母であった…
  2. 戦国武将列伝Ω
    寿桂尼(じゅけいに)は、藤原北家である勧修寺流の中御門家(公家)・権大納言中御門宣胤の娘で、兄に中御…
  3. yodo
     お市の方は、1547年?に織田信秀の娘として誕生した。呼称としては、市、お市の方、市姫、小谷の方(…

人気の戦国武将

  1. 勝竜寺城
    1582年6月2日の本能寺の変で織田信長を倒して明智光秀ですが、なかなか味方してくれる大名がいなく苦…
  2. 武田の武将隊
     天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)は、1582年6月、織田信長の死後、空白地帯となった甲斐・信…
  3. 長篠の戦い
     長篠城を包囲した武田勝頼に対して、徳川家康・織田信長が38000の援軍を派遣すると、武田勝頼が12…

 スポンサーリンク
当サイトでは
Android app on Google Play
↑ アプリ版もあります
 オリジナル電子書籍

2016年8月、戦国武将研究会著作
ページ上部へ戻る